知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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身体の尊厳


移植医療の進化がついに頭部の移植にまでたどり着きそうだという記事を書いてこのブログに載せたところ、早速読者から反応があった。その読者は、かりにロシア人(の頭)と中国人(のボディ)が合体した場合、「ロシア人の脳味噌で中国人の身体は、脳味噌の指示通りに動きますかね?」というコメントを寄せてきたのだが、これを読んだ筆者は、先日読んだ内田樹のある文章を思い出した。内田は、身体というものは、脳の自由になるようなただの物質ではなく、それ自体の自主性のようなものがあるのだと言って、それを「身体の尊厳」と呼んでいた。

「人間の尊厳」とか「生命の尊厳」とかいう言葉は聞いたことがあるが、「身体の尊厳」という言葉は始めて聞くので、筆者はそこから強烈な印象を受けた。

この言葉を内田は、セックスワークをめぐる論争において、いわゆるウーマン・リブの論客たちが、売春を女性の自己決定権のひとつの形態として擁護する議論を批判するものとして持ち出している。内田は言う、「これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めていないということである。身体には<その身体の『所有者』でさえ犯すことの許されない>固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している」(「セックスというお仕事」と自己決定権、「子どもは判ってくれない」所収)

内田のこの考え方は、人は自分の身体を道具化することによって、自分自身の尊厳を踏みにじっているという見方を反映しているのだと思う。身体を物質的な道具としてしか見られない人は、人間を精神的な実体としての意識と、物質的な実体としての身体とに分解し、身体を意識による操作の対象としてしか見ないデカルト以来の臆見に囚われている。そうした臆見によれば、身体は精神の操作の対象でしかないから、自分の身体をどう使うかは、精神の勝手ということになる。だから、自分の意思に基づいて、男から直接金をとって自分の身体を売るのは、中間搾取抜きで100%自分の身体を利己的に搾取するためである、ということになる。

しかし、メルロ=ポンティや現代の現象学者たちの指摘を待つまでもなく、人間というものは、精神と身体とに機械的に分離できるものではない。身体とは別に精神があるわけではない。精神は身体の存在のひとつのあり方なのである。身体を離れた精神があるわけではない。身体がなければ精神が成立しない、という言い方さえ誤謬なのであって、身体と精神とは、生命のあり方をそれぞれ別の角度から表現したものに過ぎない。つまり身体と精神が合体して、そのうえで人間という生命的な存在が成立するのではなく、人間という生命的な存在者がまず存在していて、それが一面では身体としての様相を呈し、もう一面では精神という働きを呈するに過ぎないのだ。

内田の議論は、一応身体と精神とを分離可能と前提しておいて、それでもなお身体にも固有の尊厳があるのだという理路をとっているようであるが、そういう議論でも、精神と身体とは別々のものだとする見方には強烈な批判となりうるのだから、ましてや身体と精神とは分離可能な別物ではなく、そもそもひとつの生命的な存在者の異なったように見える様相なのだとする見方に立てば、精神による身体の搾取を合理化するウーマン・リブの議論はもっと手痛い反論を受けるであろう。

こんなわけだから、別人の頭とボディをくっつけようとする頭部移植の試みは、人間という存在に対する重大な誤解に立っているというべきである。いま生きている一人の人間は、過去の体験の蓄積された成果と考えることができるが、その体験は脳だけが引き継いでいるわけではない。記憶の中には身体記憶と称すべきような、身体で覚えているものもある(たとえばピアノの演奏のテクニックのような)。しかのみならず、そうした身体記憶と脳による精神的な記憶とが複雑に絡み合って、いまいる一人の人格が成り立っている。それを、別人の頭とボディをくっつけたらどういうことになるか。

「ロシア人の脳味噌で中国人の身体は、脳味噌の指示通りに動きますかね?」という読者の懸念には十分な理由があるというべきである。




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