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災いを転じて福と為す:老人問題についての穏やかな提案


今では古典的な著作となったスウィフトの政治的パンフレット「貧民児童の有益活用についての穏やかな提案」は、今日の日本にも参考にできるものを多く含んでいる。ただしストレートに適用できるわけではない。あのパンフレットは、スウィフトが生きていた時代のアイルランドに存在していた膨大な数の貧困児童に着目し、これら児童が両親や社会の重荷になっている事態を前に、いかにしてそれを解決し、両親や社会の負担を減らすばかりか、当の児童の幸福をも増大させるかことができるか、研究・提案したものであった。しかし今の日本が直面しているのは、貧困であれそうでない場合であれ、児童の過剰ではない。むしろ児童が少ないことが問題になっているくらいである。いまの日本が直面している問題とは、老人の割合があまりにも多いことに根ざしている。さよう、今の日本においては、老人の割合がこれまでに地球上に存在した如何なる国に比較しても異常に高く、それに比べて若者や児童の割合が異常に低いのである。これを人口の逆三角形化現象と呼ぶ向きもあるし、無子高齢化と呼ぶ向きもある。

今日の日本が抱える老人問題を解決しようとするにあたり、スウィフトの上記のパンフレットに盛られた提案がいささか参考になるではないかと思い、小生はこれを慎重に検討した上で、万人に受け入れられやすい穏やかな提案をしてみたいと思うのである。と言うのもスウィフトの提案は、自身穏やかと言っているにかかわらず、かなり急進的であって、今日の日本社会においては、そのままでは受け入れられがたいと思うからである。スウィフトの提案は、貧困児童のうち、社会の役にたちそうにない部分を間引きしようと言うことに尽きるのだが、その間引きの方法というのが、児童の肉を金持ちに高値で買ってもらって食ってもらうこととしている点で、今日の日本人には到底許容できない人道上の問題を抱えていると言わねばならない。これをストレートに今日の日本の老人たちに適用すると、不要な老人を間引くということになるが、間引くとは抹殺する、つまり殺してしまうことに他ならないから、人道意識の進んだ今日の日本社会には到底受容できる政策ではない。しかも老人は児童のように食ってもうまいものではないし、これを好んで買ってくれる者もいないだろう。殺しても殺し放しになって、その遺体を有効に活用できる見込みはないのである。

そこで今日の日本が直面する老人問題を解決するにあたっては、スウィフトとはいささか異なるアプローチをとる必要がある。老人を露骨に殺さなくても、彼らの存在が社会に負担をもたらすことがなくなるよう方法。それを考えればよいわけである。小生はその方法のエッセンスをここで提案・紹介したいのだが、それはスウィフトの提案に比べて更に穏やかなものになるはずである。

小生の提案の骨格は老人に生存税を課すというものである。老人にはいろいろなタイプのものが混在しており、十把一絡げで論じるわけにはいかない。所得が高く、国を宛てにしなくても十分豊かな暮らしができる者もいれば、社会の慈悲にすがらねば生きていけない老人もいる。また、精神面でも老人によって様々な差異があり、老いてなお活発な知的活動を発揮しているものもあれば、痴呆同然の者もいる。そのような老人を一律に扱うというのは、あまりにも現実を遊離した考えである。老人の状態に応じてそれに相応しい政策をきめ細かに実施することが肝要である。

まずすべての老人について、社会国家に生存し続けることに対して生存税を課す。これはナショナルミニマムのカウンター概念のようなものだが、生きようとする意欲を持つ老人たちに、生きる資格を認定するものである。その額は高めに設定するのがよい。そうすることで裕福な老人がタンスの中にため込んでいた金が、税という形を通じて社会に還元され、経済の活性化がはかられる。生存税を若者や児童のための政策の財源として使えば、子どもの出生率も上がるであろう。これは老人世代から若い世代への所得の移転を伴う政策だが、これによって、若い世代や児童たちに優先的に財源が使われることになり、日本という国が活気を取り戻すきっかけになるであろう。

ここで、生存税を払えない老人をどうするかという問題が生じる。生存税は個人に対する人頭税のような性格を持たせるのが望ましいから、その場合、一家に複数の老人がいる世帯(たとえば夫婦の世帯)では、一人分しか支払えないといった事態も考えられよう。そうした担税能力を持たない老人をどうするか、それが喫緊の課題となる。生存税は生存の資格を付与するのであるから、老人にとっては日本で生きるための最低条件である。だから生存税を払えない者は生きる資格がないのであるから、生きるのはやめてもらいたいということになるかと言えば、ことはそう単純にはいかない。

ここでちょっと脇にそれて確認して起きたいことは、この政策があくまで日本国内に限定的に適用されるということである。スウィフトも言っているとおり、社会政策はあくまで国内向けの政策であり、外国からの影響とか外国への影響とかは無視することが必要である。

先ほども述べたとおり、老人にもいろいろなタイプの人がある。ある人は知的能力が高く、ある人は身体能力が高いといった具合である。その能力に応じて、老人に社会貢献させるような政策を実施するのが望ましい。無論生存税が払えない人々が対象なのだから、彼らを社会奉仕させるについても、それが生存税に匹敵するような貨幣価値を生み出すとは限らない。しかし、これまではただ老人であると言った理由だけで手厚い社会保障を受けられていたわけであるから、彼らを受け手一方の存在から与えるほうの存在へと転換させることで、社会はこれまでに増した収益を享受することができる。つまりこの政策のポイントは、老人を一律給付の対象と見なすあり方から、その能力に応じて老人を社会参加させるやり方へと転換させるものなのである。言ってみれば、能力に応じて働かせ、必要に応じて与えるという政策である。

こうすれば、社会が老人を死重だと見なすこともなくなるだろう。スウィフトの提案にあるように役立たずの者を殺してしまうという、非人間的なこともなされずにすむ。これ以上スマートで穏やかな老人福祉政策があるとは、小生には考え及ばない。

ついては、日本の政治リーダーたちには小生の提案を真摯に受け止めて、早急に政策化してもらいたいと思う。この政策には、政治リーダーにとって都合のよい部分もあるのだ。世論調査結果では、世代の年齢層が上がるほど、政府への注文が増えるということが指摘されている。それはいままで老人たちを甘やかしてきた結果でもあるが、この政策を実施することで、老人たちは自主自立に徹するようになり、政府にあまり無理な注文は言わなくなると思うのだ。

ともあれ、日本社会の高齢化は異様なスピードで進んでいる。老人福祉の抜本的見直しは、もう待ったなしなのである。災いを転じて福と為すと言う言葉があるが、小生のこの提案ほどその言葉に相応しいものはないのではないか。この政策が実現された暁には、時の政権の最高幹部が、年寄りには早く死んでもらいたいなどとうそぶくこともなくなるだろう。





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