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内田樹「ためらいの倫理学」


内田樹はマルクス主義者とフェミニストが大嫌いだそうである。その理由は、彼らのどちらもが正義の人を自認しているからだという。彼らは、自分こそが正義を体現しており、その立場から世の中の間違ったことがらを糾弾しているというポーズをとる。だから、彼らの口調はいきおい査問調になる。そこのところが鼻持ちならないというのである。

内田に言わせれば、世の中に絶対的な正義などというものはありえない。したがって絶対的に正しい人というのもありえない。人というものは、間違えやすい生物なのである。その間違いやすさを自覚して、自分に謙虚であることが大切だ。自分に対して謙虚である人は、他人に対しても謙虚でありうる。自分が絶対に正しいと思っている人は、自分に対して謙虚にはなれない。そういう人は、自分に対して夜郎自大的な全能感を持つだろう。そういう人が他人に対して謙虚になれないのは、当然のことだ。

内田は、この自分に対して謙虚であることを、「自己批判能力」と言う。内田によれば、「私たちは知性を検証する場合に、ふつう『自己批判能力』を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは『バカ』とよんでいいことになっている」ということになる。

また、「私は知性というものを『自分が誤り得ること』(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、『自分のバカさ加減』についてどのくらいリアルでクールな自己評価ができるかを基準にして、私は人間の知性を査定している」とも内田は言う。だからこそ内田は、「私は『邪悪な』人間である」と堂々と宣言し、なおかつ、「経験的に言えることは、おのれの『邪悪さ』について適正な評価を行っている人は、おのれの『邪悪さ』を自覚していない人よりも、社会的に与える被害が少ない」と言えるわけであろう。

このように自分の弱さを自覚しながらおそるおそる世の中と向き合う姿勢を内田は「とほほ主義」といっている。自分が向かい合っているさまざまな世の中の出来事が「ろくでもないこと」とわかっていながら、正義の人のようにそれを査問的に糾弾できない。それは、自分もまたその「ろくでもないこと」の片棒を担いでいるというやましさの感情があるからだ、そのやましさの感情が自分の査問しようとする腰を折る、そのときに自分を襲う感覚がこの「とほほ」なのだというのである。

「ためらいの倫理学」と題する著作は、内田の事実上の処女作だが、そこに納められた論文はいずれも、この「とほほ主義」を適用して書かれたものである(と内田は言っている)。表題は、アルベール・カミュを論じた同名の小論からとったというが、その論文は、カミュがなぜサルトルのように査問的になれなかったか、その所以を論じたものである。サルトルが絶対的な正義の立場から、世の中の悪を糾弾し続けたのに対して、カミュはそのような正義に立脚できなかった。それは、彼自身自分の弱さを自覚していたからで、その弱さの自覚を内田は「ためらい」と呼ぶわけだが、それは内田のいうところの「とほほ」にも通じる。それゆえ「ためらいの倫理学」は「とほほ主義的倫理学」とも言い換えることができる、ということになる。

内田の文章を読んで感じるのは、バランス感覚のよさということだと思うが、そのバランス感覚は「とほほ」の感覚に根ざしていたわけである。そんなわけでこの著作は内田の原点とも言えるものだ。

「あとがき」の中で内田は、この諸論文で主張していることを一言で「無理して言えば、それは『自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ』ということになろう」と書いているが、これも「とほほ主義」のひとつの宣言と受け止めることができよう。

ところで内田は、これらの論文を当初はインターネット上のブログに載せたのだそうだ。最初は少数の身内だけを対象に書いていたが、そのうち見知らぬ人からも反応が来るようになり、ついには出版社の目に留まって本にしないかと誘われた。そうしてできたのがこの本なのだそうだが、この本に限らず内田の著作は、ブログに載せた文章をまとめたという体裁のものが多いという。ネット時代を象徴するようなケースなわけだ。




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