知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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内田樹「知に働けば蔵が建つ」


題名からして、知識を活用して懐を豊かにする話が書いてあるのかと思うのは、筆者のみではないと思うが、この本にそれを期待する人は裏切られた気分になるだろう。この本のどこにも、金儲けのヒントは書かれていないからである。そのかわり、人を激昂させることの意義が書かれている。人を激昂させるとは穏やかな話ではないが、文章の命と言うものは、人を怒らせることにかかっていると言うのだ。人を怒らせない文章と言うのは、誰にとってもどうでもよい文章なので(たとえば「天声人語」のように)、人々の記憶から速やかに消え去ってしまう。ところが人を怒らせる文章と言うのは、どこかしら本質に触れるところを含んでいる。本質的な文章と言うのは、それなりに長持ちするというのである。

金儲けの話が聞けない代わり、哲学の話を聞きかじることはできる。筆者が感心したのは、大衆社会についての、ニーチェとオルテガの考え方の相違を論じた部分だった。ニーチェもオルテガも「バカ」を「悪人」よりも憎むタイプの思想家だったが、この似たもの同士と言える二人が、大衆社会についてはかなり異なった考え方をしていたというのだ。

ニーチェにとって大衆とは、他の人と同じであることに満足している集団のことを言う、そこでは主体的な個人というものは存在せず、他律的な人間の群れが存在するだけだから、そんなものは畜群と言ってよい。大衆社会はそんな畜群が幅を利かせている社会であり、そこでは隣の人間と同じように振舞うということが唯一の行動原理となる。

これに対してニーチェは、超人というものを対比させて、人間社会を高貴なものとするのは、この超人をおいて他にはないと言った。超人こそは、人間の可能性を実現し、人間の価値を高める鍵を握っている。その超人の行動原理は、「勝ち誇った自己肯定」にある。超人は、自分以外に行動の原理を求めない。自分自身が求めること、それが彼の行動を駆り立てる動力となる。その意味では超人は、あたりをはばからぬ野蛮人だといってよい。超人は原始時代の野蛮人のように、ただひたすら己の欲することだけを追及するのであり、その彼の追及の結果が人類を全体として高めていく、というようにニーチェは考える。

大衆を、他の人と同じであることに満足する平準化された集団とし、それに貴族(ニーチェの超人に対応する)を対立させる点は、オルテガも同じである。ところがオルテガはニーチェと違って、「勝ち誇った自己肯定」を、貴族ではなく大衆の特性だと考えた。大衆は、自分たちは無謬だと思っているからこそ、隣の人と同じことをすることに躊躇を感じない。オルテガにとって大衆社会とは、ニーチェの超人の特権であった「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延した状態をさしているわけである。

一方、貴族のほうは、「勝ち誇った自己肯定」ではなく、「義務感」とそれにもとづく「奉仕」の精神を行動原理としている。オルテガの貴族たちは、自分を無にして大衆の救済のために尽くすのである。ニーチェとオルテガとは、大衆社会についての同じような認識から出発しながら、大衆の捕らえ方と、大衆に対立する超人・貴族の捕らえ方に根本的な相違があるわけだ。

内田のこの議論を聞いて、なるほどこういう読み方もあったのかと、思った次第だった。

ところで内田は、自分の執筆態度について言及しているが、それがまた興味深い。内田は言う、「私は自分がいったい何を言いたいのかわからず、『私は何を言いたいのか』を知るために書き始めるということが多いので、途中でぜんぜん関係ない話になってしまうことは原理的に避けがたいのである」。そんなわけだからこの本の内容も、金儲けについて何を言いたいのかを知るために書き始めたにかかわらず、金儲けと縁のない話になってしまったのかもしれない。上に取り上げたニーチェとオルテガについての文章も、最後のところで、大衆社会論から精神論へとすり替わっている印象を受ける。それも内田の執筆態度の癖が働いた結果なのかもしれない。




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