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藤岡靖洋「コルトレーン」


台湾旅行の飛行機の中で、藤岡靖洋著「コルトレーン:ジャズの殉教者」(岩波新書)を読んだ。コルトレーンは、60年代のジャズ黄金時代において、モダンジャズの究極の音を吹き鳴らしたミュージシャンとして、我々団塊の世代には大きな存在だったと言えるが、そのプライベートな面については、日本のファンにはあまり知られることがなかった。この本は、そんなコルトレーンの人間としての面を紹介したものとして、ファンにとっては興味深いものだ。

この本は、コルトレーンが自分のクアルテットを率いて66年に日本にやって来たことから筆を起こす。この日本公演を、筆者は聞くことができなかったが、ファンの間に熱狂的な反応を引き起こした。その反応が、音楽に対するコルトレーンの宗教的ともいえる情熱に触発されたものだったということを、この本の著者は主張している。著者によれば、コルトレーンの生涯は「ジャズの殉教者」としてのそれであったと言うのだ。実際、コルトレーンは、日本公演の翌年、わずか40歳で死んでしまうのである。

コルトレーンが活躍した時代のアメリカは、黒人解放運動が未曾有の高まりを見せていた。そんな時代だから、黒人ジャズミュージシャンにとって、ジャズは単なる音楽のパフォーマンスではなく、黒人としてのアイデンティティを主張する媒体でもあった。だから、大物の黒人ジャズミュージシャンの中には、自分の演奏活動に政治的なメッセージを込めるものが多かった。たとえばチャールズ・ミンガスは、「フォーバス知事の寓話」という曲の中でリトルロック事件を風刺したし、マックス・ローチは、「ウィ・インシスト」というアルバムでシットイン運動を呼びかけたし、アート・ブレイキーは、「フリーダムライド」というアルバムで非暴力の抵抗運動を呼びかけた。

そんななかでコルトレーンは、自分の主義主張を公然と訴えるというようなことはしなかった。しかし、彼が黒人解放運動の動きに無関心だったと言うことではない。むしろ逆に、もっとも高い関心を示していたと言える。ただ、その表現の仕方が、ほかのミュージシャンとは異なっていたということだ。コルトレーンは、自分の作った曲の題名に、黒人解放運動をめぐるさまざまな事象を盛り込むことによって、自分が黒人解放運動にコミットしているということを、目立たない形で表現したのである。

そんなコルトレーンの振る舞いについて、著者の藤岡は、五つの曲名を上げて、それらに込められたコルトレーンの隠れたメッセージを明るみに出している。その五つの曲名とは、「ダカール」「バイーヤ」「バカイ」「アンダー・グラウンド・レイルロード」「アラバマ」である。

ダカールは、西アフリカのセネガルの首都である。ここは奴隷貿易の拠点となっていたところで、沖合のゴレー島には、集められた奴隷を閉じ込めておくための施設「奴隷売買の館」があった。コルトレーンの先祖も、ここからアメリカに出荷された。というのも、奴隷は人間ではなく、売買対象の品物だったからだ。

バイーヤは、南米ブラジルの都市(現サルバドール)で、北米のニューオーリンズとともに、奴隷船の着岸地であった。ダカール同様、現在ではユネスコの世界遺産に登録されている。

バカイは、アラブ語で「叫び」を意味する。北部で生まれ育った14歳の黒人少年が、南部にやってきて白人女性に声をかけたところ、白人たちから袋叩きにされて殺された事件を暗示していると言う。

アンダー・グラウンド・レイルロードは、南部を脱出して北部に向かった黒人たちが、白人の追っ手を逃れるためにたどった地下ルートのことをさす。逃亡奴隷たちは、このルートをたどって北部の町を目指した。そんな黒人たちを案内したといわれる女性は、「女モーゼ」として、コルトレーンの敬愛の対象となったと言う。

アラバマは、1963年9月に起きた白人至上主義者KKKによる黒人教会襲撃事件があった都市だ。この事件で4人の黒人少女が殺された。先日は、アメリカ南部で白人青年による黒人教会爆破事件が起きたばかりだが、こうした人種に基づくヘイト犯罪はアメリカの暗部として、未だに克服されていない。

これらの曲にはいずれも、抗議の意思が露骨に込められているわけではない。込められているのは、犠牲となった黒人たちへの鎮魂の祈りである。

コルトレーンといえば、うちにこもった情念を爆発的な形で表現するミュージシャンというふうに受け取られているが、政治的なメッセージについては、控え目にとどめている。そうすることで、幅広い共感を呼ぼうと思ったのかもしれない。




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