知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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宮沢賢治と石原莞爾


片山杜秀によれば、近年では宮沢賢治と石原莞爾を結びつけて論じられることがよくあると言うことで、片山本人も「ケンジとカンジ」といった語呂あわせを使ってこの両者を結びつけてきたそうである。宮沢賢治といえば理想主義的な童話作家ということになっており、また石原莞爾といえば日本の軍国主義の巨魁とされているから、この二人を結びつけることには、違和感を覚える人が多いだろう。たしかにこの二人には共通点がないわけではない。二人とも法華経の熱心な読者であったという点、そして田中智学の国柱会と密接な関係を持ったという点である。田中智学といえば、日本のファシズム運動を担った一人であるので、論者の中には、この男と関係が深いという理由で、ケンジとカンジを一緒くたにしてファシスト呼ばわりする者もいる(たとえば佐藤優)。

そうした見方に筆者は到底同意できないが、片山はある程度同意できると考えているようである。その理由として片山があげるのは、賢司の思想に見られる法華経の影だ。たとえば「銀河鉄道の夜」。この童話の中でジョバンニが言う次の言葉、「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が言っていたよ」を取り上げ、片山は、これはこの世を仏国土にしようとする法華経の教えを反映したもので、そうした考え方は、田中智学を通じて学んだのだと言うのである(片山「未完のファシズム」)。

この世をそのままに仏国土にしようと言う考えは石原にもあって、彼は日本がアメリカとの間で行う世界最終戦争に勝ち残った後、この世界を天皇を中心にした理想郷にするのだと考えていたのであるが、彼はその考えを田中智学の「八紘一宇」の教えから学んだと言うのである。

こういうわけで、賢司も莞爾も田中智学から多大な影響を受けている。それ故この両者は思想における双生児のようなものとして、並べて論じることができると言うわけである。その場合に、田中も石原もファシストであったと言うことを理由にして、賢司までファシストにするのには一理があるということになるのか。片山はそこまで言っていないが、賢司には莞爾に非常に通じることがあるということは認めている。

ところで、田中智学と石原莞爾に共通するファシズムの要素はどんなものか。田中は日蓮を通じて法華経を学んだわけだが、法華経だけではファシズムとはならない。日蓮宗の宗派の中には、平和を重んじるものもある。田中の思想がファシズムに傾いたのには、法華経以外の要素が絡んでいる。それはナショナリズムだ。法華経にもとづく仏国土思想がナショナリズムと結びつくことで、八紘一宇の思想が生まれ、それが日本のファシズムの思想的な骨格へと発展してゆく、そのように片山は考えているようである。

そこで、筆者が知りたいのは、宮沢賢治にもこのナショナリズムの要素があったのかということである。この点を明らかにしないと、賢司と莞爾を同じようなものとして並べるわけには行かない。まして、賢司を莞爾同様のファシストだと決め付けるわけにはいかない。

筆者の考えを言えば、賢司には露骨なナショナリズムへの志向はない。彼は基本的にはコスモポリタンだと言うべきである。賢司は宇宙的な次元で考えており、ナショナリズムの狭い了見には捉われていない。銀河鉄道の中のジョバンニがこの世に理想郷をこしらえようと言ったのは、なにも天皇を中心とした八紘一宇の世界を作ろうと言うのではなく、世界中のひとびとが平等の立場で理想的な世界を作ろうということを意味していると考えるほうが、賢司の解釈としては自然だ。




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