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保坂正康「昭和史のかたち」


保坂正康は、昭和史を主なフィールドとするノンフィクション作家として知られる。この本はそうした立場から保坂なりの昭和史観をまとめたものと言えるのだろうが、そこには今の時代への保坂なりの危機感も働いているようである。その危機感を保坂は、「戦後七十年の節目に、無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている」と表現しているが、こうした動きはとりもなおさず、過去を真剣に反省せず、自分の都合の良いように再解釈する歴史修正主義に駆動されているという問題意識に立って、一人ひとりの国民に、昭和史を改めて考えて欲しい、という気持ちが保坂に強く働いたのであろうということを感じさせる。

保坂は昭和史を、戦前、敗戦から昭和二十七年の独立回復まで、それ以降の三つの時代に大きく区分してそれぞれの特徴を描いているが、特にこだわっているのは昭和前期としての、敗戦までの時代つまり戦前である。この時代を保坂はファシズムの時代と定義づけたうえで、日本型ファシズムの特徴を多角的に分析している。それ故この本は、単なる時代史であることを超えて、日本型ファシズムの政治的・社会的分析の書ともなっている。

以上のように俯瞰してみると、この本に込められた保坂の問題意識がいっそうよく浮かび上がってくるだろう。保坂は、安部晋三政権が追及している動きをファシズムへの回帰を目指すものと捉え、それと鋭く対立するために、対立軸を明確にしたうえで、その是非について、国民一人ひとりによく考えて欲しい、と思っているようなのである。

ファシズムをどう定義するかについては、また別に議論があるが、大方の理解では、国内的には抑圧的な体制、対外的には侵略主義ということになろう。この二つを備えて初めてファシズムと言えると思うのだが、この本の中で保坂は、戦前の日本の対外的侵略主義は折込済みの前提として触れず、もっぱら国内的な抑圧について語っている。

抑圧的な体制というと、抑圧するものと抑圧されるものとが非対称的な関係にある、つまり抑圧的な権力が国民を一方的に抑圧している、というふうに思われがちだが、保坂は、戦前の日本では、権力と国民との関係は非対称的なものとばかりもいえなかったとする。つまり国民のほうもそれに加担したという面があった、と言うのである。

保坂のこのような見方は、事象を多面的な見地から見るという態度に導かれている。たとえば、戦前の抑圧的な体制を分析する際には、その体制の要素として、情報の一元化、教育の国家主義化、弾圧立法の制定と拡大解釈、官民あげての暴力と言うものを取り上げ、この四つの要素が形作る四辺形の運動として戦前の抑圧的な体制を捉えるわけである。この運動には、権力としての政府のほか、統治される国民もかかわっているし、また権力内部でも、政治と軍部の対立があると言う具合に、様相はきわめて輻輳していた。その輻輳した事象を、さまざまな要素に分解整理してみることで、全体像が浮かび上がってくる、というわけである。

こうした見方を保坂は、幾何学をモデルにして展開している。上述の四辺形の考え方はその典型だが、そのほかにも、直線、三角形、球といった具合に様々な図形モデルを応用して、戦前の日本の抑圧的な体制を多角的な視点から分析していくのである。図形が変わるのに応じて、分析の視点も変わってくる。どれか一つの視点だけでは、事象の全体像は浮かび上がってこない。より多くの視点を組み合わせることで、事象の見え方が明瞭になってくる。

こうした方法を保坂は、天皇の政治責任についての議論にも応用している。天皇の政治責任を追及するのは一見単純なことのようだが、実際にはそんなに単純なものではない。単純に見えるのは、それを見る視点が限られているからで、視点を広げれば、また違ったふうに見えてくるに違いない。そう言って保坂は、天皇の政治責任を多角的な視点から考察してゆく。

保坂の昭和史へのこだわりのなかでも、天皇の戦争責任へのこだわりはとりわけ強いようだ。最近になって昭和天皇実録が公刊された時にも、保坂はただちに反応して、これをどう読むべきかについて発言した。その時の発言からは、昭和天皇の戦争責任については、曇りのない目で見るべきだというようなことが読み取れたのだったが、この本の中では、保坂は昭和天皇に対してかなり同情的である。

興味深いのは、昭和天皇が、この国の主権者としての立場と大元帥として軍の統帥を握っている立場とを使い分けて、主権者としては戦争開始に批判的な発言をし、大元帥としては肯定的な発言をしていたと指摘している点だ。保坂は、主権者としての発言のほうが昭和天皇の本音をあらわしていると解釈しているのだが、そのへんはまた視点に応じて違ってくるかもしれない。




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