知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




内田樹、中沢新一「日本の文脈」


内田樹と中沢新一は同じ年の生まれだし、経歴にも似たようなところがあるので、古い付き合いでもおかしくないのだが、この対談のために会って話したのがはじめての出会いなのだそうだ。ちょっと話しただけで、すぐに仲良くなった。それは、お互い非常に似ているところがあるためで、その似ているところというのは、ふたりとも「男のおばさん」を自負している点だと言う。「男のおばさん」とはおかしな言葉に聞こえるが、要するに「おばさん」的な思考をする男という意味らしい。

「おばさん」的な思考とは、内田によれば、話の進み具合がとりとめなく、どんどん横に逸脱してゆく、キーワードを拾って横へ、横へずれてゆく、ということらしい。つまり論理の必然性ではなく、事象の共通点を手がかりにして、話が縦方向にではなく、横方向へと脱線してゆくような思考方法ということのようだ。「おじさん」的な思考をする人には、非常に非論理的に映るが、これはこれでよいところもある、と内田はいうわけだが、その意見には中沢も同意して、日本人の思考法は、基本的には「おばさん」的なのだという。

中沢が「おばさん」的思考の典型例としてあげているのは本居宣長や柳田国男だ。彼等の文章は、事象をただ列挙しているだけで、結論的なものが明確に出てこない。だからヨーロッパ人から見れば、ただのエッセーとして映り、論文とは認めてもらえない。論文とは論理によって支えられているものだが、彼等の文章は論理ではなく、比喩によってつながっているだけだからだと言うのである。

こうした思考法は、宣長や柳田に限らず、日本の一流の思想家に共通して見られるものだろう。たとえば南方熊楠。熊楠の文章は、事象の共通点を手がかりに、次から次へと比喩によって無際限につながってゆく言葉遊びのようなものだ。こうした比喩によるつながりで思考を展開することを、筆者は隠喩的思考と呼んでいるが、西田幾多郎などは、そうした隠喩的な思考を深刻に展開した思想家だと思う。それ故、西田はなかなか欧米人に評価されない。

欧米人の中にも、「おばさん」的な思考をするものはいて、たとえばレーニンなどはそのいい例だと中沢は言う。レーニンのどんなところが「おばさん」的なのか、中沢はあまりくわしく説明していないが、とにかくレーニンは「革命家のおばさん」なのだという。それに対して宿敵のトロツキーは「革命家」そのものだという。革命というのは本来おじさんのすることなのだ。

「おばさん」的思考にはいいところもたくさんあるが、その悪いところは、ものごとをとことんまでつきつめて考えることをしないことにある、と内田は言う。そのいい例が危機管理意識に乏しいことで、それが3.11で露呈してしまった。あの時「想定外」という言葉が流行ったが、これは「想定することが不可能だった」という意味ではなく、「そもそも想定する習慣をもたなかった」ということを意味しているのであり、つまり日本人がものごとを徹底的に、しかも論理的に思考する習慣をもっていないことを語っているにすぎない。

この点アメリカ人は、想定できないようなことまで想定しようとする徹底性を持っているという。だから彼らは危機管理に強い。アメリカなら3.11のような深刻な事態は恐らく生じなかっただろうし、生じたとしてももっとスマートに収束していただろう。彼らは徹底した危機管理によって、災害の発生を最大限防止しようとするし、災害が起きてしまったときには、それにどう対応するか、効果的なマニュアルを用意しておくからだ。日本人は危機管理意識に乏しく、災害に効果的に対応するマニュアルも用意していない。それが「おばさん」的思考のもっともよくない点だというわけである。

これに対して「おじさん」的思考の最も先鋭的な形はユダヤ人の思考法だというのが二人の共通した意見だ。そのユダヤ人の思考が、一神教に支えられていることは明白だ。ユダヤ教の神というのは、どうも家父長のイメージを神格化したところがあり、当然のことながら「おじさん」的である。「おじさん」的思考というのは、だらだらと脱線したおしゃべりに耽るのではなく、論理的に筋の通った考えをすることである。彼らにとって論理の筋が通っていない考えをする人間は、ただの頭の悪い人間に過ぎない。だからユダヤ人の目には、日本人は頭が悪いというか、事柄の論理を知らぬ野蛮人として映る。彼らにとって日本人は文明化された野蛮人なのである。

二人とも、ユダヤ人の偉大な学者、内田の場合にはレヴィナス、中沢の場合にはレヴィ・ストロースだが、その学者から、日本という国の文明化された野蛮人として、アメリカ大陸の原住民と何ら異なるところはないという扱いを受けたそうである。

だが二人は、ユダヤ人はヨーロッパの「おばさん」だとも言っている。これは何を根拠にした発言かよくわからぬのだが、おそらく彼等の意識の中では、ユダヤ人と日本人とのあいだに何等かの共通点が現前化し、それが隠喩の作用を通じて、両者を結びつけたのだと思われる。その際に、この二つの民族を結びつける媒介役として、「おばさん」という属性が働いたのだろう(なんだかわけがわからぬが)。




HOME壺齋書評次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである