知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




内田樹によるレヴィナスの他者論


内田樹がレヴィナスの思想の核心をその他者論にあると捉えていることは、彼のレヴィナス論「レヴィナスと愛の現象学」の全体が、他者としての師匠、他者としての神、そして他者としての女、についての議論に当てられていることからも窺われる。その議論はかなりわかりづらいのだが、それはレヴィナス自身の思想がわかりづらいからか、それとも内田によるレヴィナスの紹介の仕方がわかりづらいのか、レヴィナスに通暁していない筆者のようなものには判断がつかない。しかし一定の推量はできそうなので、推量が出来る範囲で、内田によるレヴィナスの他者論について考えてみたい。

レヴィナスは、他者についての自分の思想を、フッサールの他我論との対決の中から練り上げた。レヴィナスの他者論の決定的な特徴は、「『私』と『他者』は同時に生起するものであって、『私』に先んじて『他者』がいるのでもなく、『他者』に先んじて『私』がいるわけでもない」と考えることである。つまりレヴィナスにとって「『私』と『他者』は、あらかじめ独立した二項として、自存的に対峙しているのはなく、出来事のうちで、出来事として同時的に生成する」のである。

これにたいしてフッサールの「他我」は、「私」とは独立して自存している。自存という言葉が、フッサールがカントとともに忌避するあの「物自体」を思い起こさせ不都合だというなら、私の志向性の対象として、あたかも自存しているような風貌で存在していると言い替えてもよい。要するに他我は、私とは一応別の存在なのだが、間主観性という契機を通じて通い合っている。私も他我も、ある一定の対象を同じものとして認識するが、それは私と他我とが間主観性という基盤を共有しているからである。私も他我も超越論的な主観としては、まったく同じモデルの範例ということになる。

この、私と他者が同じモデルの範例だとするフッサールの考えにもレヴィナスは反発する。私と他者は、同じモデルの異なった範例として相対的に対立しているのではない。絶対的に対立している、とレヴィナスは考えるのだ。私と他者との間には、絶対的な対立があるゆえに、そこには両者を比較するべき基準としての上位の審級はない。私と他者とは絶対的に隔絶しているのであって、共通の基盤はそこにはないのだ。フッサールがこのことに思い至らなかったのは、フッサールの他我が主体にとっての表象として、すなわち観想的な対象として捉えられていたためだ。他我は私にとっての観想的な対象にとどまるかぎり、私の相関者であるという位相を出ることはない。私の相関者であるなら、そのものと私の間に絶対的な対立などあるわけはない。

しかしレヴィナスは何故、私と他者との関係を絶対的な対立として捉えたのか。それは、内田の文章からは十全に伝わってこないが、どうも神のことをレヴィナスは他者として考えているようなのである。レヴィナスの言う他者がもし神であるなら、私と神とが同じモデルの異なった範例だなどと言うわけにはいかない。それは最も罪の重い涜神の行為というべきだからである。

レヴィナスの生涯を通じての哲学的な問題意識を内田は次のように定式化する。「ひとはいかにしておのれ自身を出て、他者に出会うことができるのか」。この問題意識は、いかにも哲学的あるいは倫理的に聞こえるが、ここで言われている「他者」を神と捉えるなら、問題は意外と単純だということになる。レヴィナスが生涯かけて問い続けたのは、人はいかにして神に向かって超越することが出来るのか、というきわめて宗教的な関心事だったと言えるのだ。レヴィナスの場合、この神とはユダヤ教の神だったらしいが、パスカルやキルケゴールもまた、同じ問題意識をキリスト教の神をめぐって提出した。ひとはいかにして神に向かって超越できるか、それが彼らの切実な問題意識だったのである。

レヴィナスが師匠をもうひとつの他者としていることも、それなりに理由があることだ。師匠は神の如き尊い存在だ、などと比喩的に言われることもあるが、もっと進んで実態としても、師匠の存在様式は神と共通している。師匠は弟子にとって乗り越えることの出来ない存在であり、また絶対的に対立しているともいえる。弟子ができることは、自分自身を出て師匠に出会えるよう努力することだけだ。そして一旦師に出会ったら、「弟子たちは師に就いて、神に仕える仕方を、より広義には他者とかかわる仕方を学ぶ」のである。

ここまではなんとか了解可能だ。だが内田の紹介するレヴィナスがもうひとつの他者として女を持ち出すにいたっては、了解の範囲を超えているように受け取られる。しかもレヴィナス=内田は、女を神と同じようなものとして扱っているフシがある。神と女とは他者性を通して通底しあっているようなのである。

女がなぜ神なのか。この疑問に内田は、正面から答えることはせずに、隠喩を用いて、遠まわしに説明する。主体としての私は、はだかの状態でこの世界に身をおいているわけではなく、「住まい」を根拠として世界とかかわりあっている。「『自我である』ということは『住み着くこと』である。『自我が住み着く』のではなく、『住み着くことによって自我は自我となる』のである」。住み着くには住み着くべき場所がなければならない。その場所は他者によってもたらされる。他者が身を引いて、私が住み着ける場所を私のために空けてくれるからこそ、私はこの世界に住み着くことができるのである。この他者こそ女なのだ。

ここでいう女とは、生物学的な意味での女ではなく、「現象学的に女性的な次元」なのだと断っているが、どうも筆者のような実際的な頭脳には、母親がわが子のためにこの世界に居場所を与えてやった、つまりこの世に生まれてくるようにしてくれた、という風に読める。だが暗に相違してレヴィナスは、この他者としての女を母親のイメージではなく妻のイメージで捉えている。母親ではなく妻が自分のために世界に居場所を空けてくれたというのである。この辺の理屈回しは筆者のような頭脳にはどうもピンとこない。

ところで、神にせよ、師匠にせよ、女にせよ、他者と私は同時的に生成する、とレヴィナスは言っていた。ということは、神も師匠も女(妻)も、私以前には存在しなかった、ということになる。妻である女と夫である私とが、結婚という出来事を通じて同時的に生成するという議論はわかるような気がするけれども、師匠にとっての弟子は私以外にもあるだろうし、ましてや神は、私が存在しようとしまいと、そんなこととは無関係に存在するのではないだろうか。

そんなわけでレヴィナスの他者論はわかりづらいところが多い。特に女をめぐる議論にはそういう感じが強く伴うのだが、内田にはそう受け取られないようで、レヴィナスの女についての議論を、とりわけエロスの領域に絞りながら展開している。その議論を通じて自分のアンチ・フェミニズムを吐露してもいるのだが、師匠のレヴィナスには、アンチ・フェミニズムの傾向はないようだ。




HOME壺齋書評次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである