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小林丈広外「京都の歴史を歩く」


京都に関する数あるガイドブックの中でも、京都の歴史をテーマにしたものが結構出ていると思うが、岩波新書から最近出た「京都の歴史を歩く」はかなり本格的な本だ。三人の京都研究者が、六年もかけて、岩波新書の編集者と共に京都の様々な街を歩き回り、それぞれの街の歴史を京都全体の歴史とかかわらせながら丁寧に読み解いている。時間と労力をたっぷりとかけた贅沢な本なのである。この本を通じて筆者は、京都の街についてのまた違った見方を教えられた。

三人の研究者たちがそれぞれテーマを分担してそれを三つに部立てするという体裁になっている。第一部(小林丈広)は京都の街の都市としての成り立ち、第二部(高木博志)は権力の交代を中心として京都の歴史、第三部(三枝暁子)は京都の産業や文化について、といった具合だ。それぞれの部立てごとに、いくつかのサブテーマにわけて、京都のなかのさまざまな街の、それぞれの京都らしさが紹介されている。

第一部は、京都の街からいくつかポイントとなる街を取り上げて、それぞれの街の歴史を紹介しているのだが、筆者がとくに感心したのは、室町通りの部分と清水坂通りの部分だ。室町というと足利幕府が思い浮かぶ。足利政権は室町通りの北端に幕府を設けた。そこから、足利政権の時代全体を室町時代と呼ぶようになったわけだが、室町に幕府があったのは、足利時代の最初の頃だけで、あとは北山とか東山とかに政権の拠点を構えた。しかし室町通り自体の重要性は衰えることなく、徳川時代の終わりまで、この通りは京都の産業の中心となってきた。それゆえ、祇園祭のような京都の財力を象徴する祭も、室町通りに拠点を置く人々によって担われてきた。筆者は昨年祇園祭を見物したときに、祇園の宵山が室町通りを中心にして展開していることを知ったのだったが、それには以上のような背景があったわけである。

清水坂の参道としては、現在では五條橋から伸びる道が中心だが、徳川時代以前は、いまの松原橋から延びる道が表参道になっていて、その参道沿いに多くの乞食が暮らしていた。清水寺自体が癩病者を主体とした乞食集団の庇護者のような役割を果たしていたことから、乞食たちが表参道沿いに集まり、清水寺に参詣する人々の慈悲をあてにしていたわけである。その点では、大阪の四天王寺と似たようなものだったらしい。

第二部は京都の歴史、それも京都を拠点にした権力の歴史に焦点を当てている。京都といえば、皇居のあるところであり、公卿の政権が長く拠点を置いてきたところだ。そのなかで唯一京都に拠点を置いた武士政権が足利政権だった。その足利政権が当初は室町通りに拠点を置いたことは上述のとおりだが、義満の時代には北山に広壮な御殿を建ててそこを幕府の拠点とした。その義満が「日本国王」を僭称したのは有名な史実である。北山の拠点は義満の一代限りで放棄されたので、かつての栄華をしのばせるものはあまり残っていないが、この本の中では、「日本国王の道」と題して、一条通りから北山殿に向かってまっすぐに伸びた道を考証している。その道は現在では形をなしていないが、かつては北山御殿に向かってまっすぐに伸びた、いわば王道のような体裁を呈していたらしい。

第三部では、朝鮮通信使の通った道が考証されている。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の後、家康との間で国交を回復した朝鮮は、徳川時代を通じて十数度にわたり日本に通信使を派遣した。通信使は、海路大阪に来り、そこから御座舟に乗って淀川を遡り、淀から陸路京都に向かった。鳥羽を経て東寺に至り、そこから大宮通り、七条通り、油小路を経て宿所たる本国寺に到着した。三回目の通信使までは大徳寺を宿所としていたが、その道が禁裏の脇を通るのが好ましくないという理由で、本国寺に改められたという。徳川政権はなぜか、この使節団を鴨東の方広寺にある耳塚に案内した。耳塚と言うのは、朝鮮侵略の際に、日本の武士たちが朝鮮人の顔から切り取った耳や鼻を葬ったところである。これらは、敵を殺した証拠として、身体から切り取られ、塩漬けにして日本に持ち込まれたものである。それをどういうわけか、いまや友好国である朝鮮からの使節団にわざわざ見せてやったわけである。こちらとしては、好意のつもりで見せたのかもしれぬが、見せられたほうは、いい気持ちがしなかっただろう。

使節団は徳川幕府を表敬訪問するために、京都から江戸に赴いたが、その道筋は次のとおりである。本国寺を出て、松原通りを西に向かい、室町通り、三条通りを通って三条大橋を渡り、東山の蹴上や山科を経て逢坂峠に向かうというもので、いま地下鉄の東西線が走っている線にほぼ沿っている。この道が東海道の京都側のルートであったわけである。いまでは京都の表玄関は京都駅がある七条烏丸周辺というイメージになるが、以前は三条大橋が東海道の京都側基点になっていたわけである。

こんな具合で、この本は京都の街を、京都の歴史と絡ませながら紹介してくれるので、京都を理解する上では、なかなか心強い味方となってくれるだろう。筆者も今回の京都旅行にあたって、この本を懐中にして、折につれ参照した次第だった。文章が、ガイドブックとしてはすこし硬すぎるかもしれないが、それは学者の書いたこととして、大目に見ねばなるまい。




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