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唯物論化されたグノーシス主義:中沢新一
「はじまりのレーニン」


レーニンの思想の三つの源泉のうちグノーシス主義は、革命的実践と大きなかかわりがある、と中沢は捉える。レーニンは革命の実践主体としての革命党を非常に重視したが、その党のあり方をグノーシス主義の現われとして捉えた、というふうに考えたわけである。ではグノーシス主義とは何か、それを見ておこう。

グノーシス主義あるいはグノーシス派とは、起源1-2世紀のキリスト教確立期に現れた有力な思想あるいは運動であったが、その後カトリックがキリスト教の正統派となるにつれて、異端として抑圧された。それは宗教的な世界観及び宗教的な救済のあり方を巡って、主流のカトリックとは大きな違いを持っていた。

まず、宗教的な世界観。カトリックの世界観では、この世は神によって創造された一元的な世界(コスモス)である。天国といえども、神によって創造されたコスモスの内部にある。人は神への信仰を通じて、天国でよみがえることが出来るが、それはあくまでも神が創造したコスモス内部での出来事として捉えられる。コスモスはあくまでも、神による創造行為の範囲内での存在なのだ。

これに対してグノーシス派は、宇宙を二元的に捉えた。宇宙は輪廻するコスモスと、それから解脱した涅槃からなっている。輪廻するコスモスは神が創ったものであるが、涅槃はそうではない。何故なら涅槃とは絶対的な無だからだ。神による創造以前の絶対的な端緒、それが涅槃である。人々が輪廻から解脱して涅槃に遊ぶというのは、神の定めた摂理から脱却して、絶対的な自由境に遊ぶことだ。キリスト教の神は、自分の作ったコスモスの範囲内で人間を救済しようとするが、そのような救済は真の救済ではない。そうグノーシス派は考えて、神の摂理そのものからの脱却(解脱)を目指したわけである。

こうした考え方が、仏教のそれに似ていることは、容易に見て取れる。仏教というよりは、東方的な世界観を反映しているのだと言える。グノーシス主義は、そうした東方的な世界観を引きずって、キリスト教の神よりも更に始原的なものとして、絶対的な無の境地を主張したわけである。こうした考え方が、カトリックの正統教義と鋭く対立するに至ったのは、自然の勢いだろう。

一旦は迫害され抑圧されたグノーシス主義は、近代になってよみがえった。ニーチェのいう「神は死んだ」はその象徴的表現である。ニーチェは、この言葉によって、神によって創造された一元的な世界としてのコスモスを否定し、ニヒリズムを導入したわけだが、このニヒリズムこそが、近代以降のヨーロッパ思想を大きく揺さぶるようになったのである。こうしたニヒリズムは、ニーチェが明確な言葉で表現する以前からヨーロッパ思想を揺さぶり続けていた。ドイツ観念論は、そうしたニヒリズムの現われである。だが最も純粋な形でニヒリズムが現れたのは実存主義においてである、と中沢は言う。何故ここで、つまりレーニンを論じている文脈で、実存主義がいきなり出てくるのか、よくわからぬところもあるが、要するにグノーシス主義におけるニヒリズムの要素が近代になってよみがえり、そのニヒリズム(反コスモス)をレーニンが受け継いだと言いたいようだ。

グノーシス主義が人間の思想を捉えるとどのようなことが起きるか。それは笑いだ、と中沢は言う。こう言うことで中沢は、笑いを通じてグノーシスとレーニンを結びつけようというのである。

「人間はレーニンのように、よく笑う必要があるのだ」と中沢は言う。レーニンの笑いは、「人間の意識の『底』を露呈させる、破壊的な力を持った笑いだ」。その破壊的な力によって、ものごとの表層を突き抜けて底に達することが出来る。そこに人間はものごとの真の本質を見るのだ。その曇りなき目には、資本主義社会を動かしている表層的な価値形態の底を抜けたところに、人間の経済活動の本質も見えてくる。人間の経済活動の本質とは、物を商品として交換することではなく、物の「留保無しの消費である、蕩尽に自分をゆだねていくこと」である。

「このことばにとっての笑いであり、商品にとっての蕩尽であるものが、レーニンの思想においては、ツァーリと資本主義社会にとっての革命であり、またその革命の現実性にとっての『党』なのである」。こう言って中沢は、レーニンの革命党の考えをグノーシス派における救済のあり方とそこにおける前衛的な集団の役割とを関連付けようとする。ここでグノーシス主義をめぐる二つ目の論点が問題として取り上げられる。

グノーシス主義は、人間の宗教意識というものは自然発生的に高まることはないと考えていた。放置しておけばますます宗教意識から遠ざかるというのが真実なのであって、したがって人々の宗教意識を高めるためには、前衛的な集団が指導をせねばならない。それはカトリック教会のような生ぬるいものであってはならない。徹底的な訓練によって鍛えられた職人的な集団であることが必要だ。こう考えることでグノーシス派は、後の修道院運動を先取りしていたと言える。そしてレーニンの前衛的な党の理論も、こうしたグノーシスの考え方を受け継いでいる、というのが中沢の見立てである。

以上を踏まえてグノーシス派の考え方を単純化していうと、次のようになろう。「グノーシスはキリスト教でありながら、『聖書』の神が創造したこの世界を承認しない・・・悪の神によって創造されたこの世界を否定し、そこから抜け出すことを試みなければならない」。しかしその試みは簡単に出来るものではない。何故なら人々の宗教意識は自然発生的には高まらないからだ。それを高めるためには、前衛的な集団による指導が必要だ。グノーシスこそ、その指導に相応しい唯一の、職人集団なのだ」。

こう整理すると、レーニンの革命理論はグノーシスの正嫡の子孫ということになる。だがそれが物質的な力を持つようになるためには、宗教の(観念的な)衣を脱ぎ捨てて、物質的な運動に転化せねばならない。グノーシス主義は唯物論化されたグノーシス主義にならねばならない、というわけなのである。

ともあれ、レーニンをグノーシスと結びつけて論じた中沢の試みは、非常にユニークなものと言えよう。




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