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伊東光晴「ガルブレイス」


読書誌「図書」の4月号に伊東光晴が寄稿し、その中で、自分に残された生涯最後の日々をガルブレイス論の執筆にあてたと書いていた。伊東は2012年の2月に倒れ心肺停止の状態に陥ったのだが、奇跡的に生き返り、なんとか執筆できるまでに回復した。この時85歳だった伊東は、自分に残された最後の日々をガルブレイスのために使いたいと決心したという。ガルブレイスに寄せる伊東の暑い思いが伝わってきて、筆者も是非読んでみたいと思い、ページを開いた次第だった。

ガルブレイスといえば、1950年代から70年代にかけて時代の寵児になった経済学者で、その本は日本でもよく読まれた。とくに「豊かな社会」などは、むつかしい専門書にもかかわらず、ベストセラーになったくらいだ。しかし、80年代以降は次第に読まれなくなった。それは、ガルブレイスが批判してきた現代資本主義が、80年代以降変質したためだと言える。ソ連型の社会主義経済体制が崩壊し、世界経済が資本主義の論理によって貫徹されるようになった。すると、資本主義万能論とともに、新自由主義的な考え方が強まってきて、ガルブレイスのような資本主義批判はアナクロニスティックだと見なされる風潮が強まったのである。

ところが今や、資本主義万能論や新自由主義的考え方が挑戦を受けるようになった。資本主義が万能ではないことはリーマン・ショックによって示されたし、行き過ぎた新自由主義は世界的な規模で格差を拡大することが明らかになってきたからだ。そんな中で、資本主義を批判し続けてきたガルブレイスに、一定の光が当たるようにもなってきたが、まだまだ十分ではない。ガルブレイスには、望ましい経済のあり方についての多くの貴重な知恵がある。その智恵を人類がもっと有効に活用することが望ましい。そんな考えから伊東は、現代の人々にガルブレイスの示した智恵の一端を紹介しようというわけである。

伊東はガルブレイスの経済理論が、経済を一つの単一の市場として見ているのではなく、二つの部分からなっていると見、それぞれに応じた経済理論を展開したと捉えている。その二つの経済分野とは、一つは大企業を中心にした先端の産業分野で、そこでは寡占が支配している。もうひとつはそれ以外の中小企業や独立農業者の世界で、そこでは競争が支配している。従来の経済理論は、自由競争が支配する単一のマーケットを想定し、それを前提とした一元的な理論体系を展開したが、その理論が当てはまるのは、市場の一部でしかない。残りの部分、経済的には一層重要な部分は、競争とは別のメカニズムが支配している。それ故そこでは、完全競争ではなく寡占を前提とした理論が求められる。

ガルブレイスは、「新しい産業国家」において、大企業による寡占の状況を、「経済学と公共目的」において、自由市場の問題点とそれへの公共部門の介入の必要性を、それぞれ提起しているというふうに、伊東は整理する。「豊かな社会」は、現代資本主義の問題点についての、総括的なサーヴェイだと位置づけている。伊東のこの本は、この三冊の著作にそって、現代資本主義についてのガルブレイスの診断と処方箋について紹介しているのである。

だが、ガルブレイスが直面していた産業国家としてのアメリカは、いまや金融国家に変貌したと伊東はいう。産業国家においては、まがりなりにも実物経済の発展が見られた。ところが金融国家では、実物経済の発展はかならずしも重要ではない。重要なのはマネーを儲けることだ。マネーさえ儲かれば、実物経済は二の次だし、事実金融国家に脱皮したアメリカとイギリスは、産業の著しい後退を伴っている。産業が後退する中で、金融ゲームばかりが盛んになる。その結果はリーマン・ショックのような金融危機である。同じような危機は今後何回も繰り返されるだろう。

1929年の大恐慌は、産業資本主義の矛盾の露呈したものと見られており、また事実そうなのだが、その一方で金融バブルがはじけた結果だとも言える。この恐慌は金融危機として始まったのだが、それに先立って異常な金融ゲームが横行していた。その加熱が金融バブルを膨らまし、その膨らんだバブルがはじけることで金融危機が発生し、それが産業の停滞を加速させたという側面があるわけだ。

この恐慌の教訓から、銀行と証券の分離など金融をめぐるルールが強化された。ところが、80年代以降恐慌の教訓が忘れられるにつれて、金融をめぐるルールが次々と緩和された。それに伴い金融バブルが再び無制限に膨らむようになった。その挙句に起きたのがリーマン・ショックだったわけだ。このことに関して伊東は、腹立たしい調子で次のように書く。

「サブプライム・ローンからリーマン・ショックを経験した私たちが再考しなければならないのは、なぜリーマン・ショックが起ったかの中に見えるものは、ニューディール治下の金融改革を逆転させた80年代以降の愚かな政治と、過去に学ばない実業界の姿であり、無能な一群の経済学者であり、時流に乗るジャーナリストたちの存在である」

こうした連中が幅を利かせるのは、マネーの魅力のなさしむる業だろうと伊東は言いたげだ。伊東によれば、ノーベル経済学賞は、純粋な学問の業績をたたえるのが目的ではなく、資本家たちに金を儲けさせた人々への論功行賞だという。「多くのノーベル経済学賞~それは本来のノーベル賞とは異なり、スウェーデンの銀行が作ったものであるが、銀行の方針ゆえに福祉国家推進論者は除かれ受賞者のほとんどは、歴史の中で忘れられていくものである」。そういえばポール・クルーグマンがノーベル経済学賞をもらったのも、リベラルな経済観が対象ではなく、経済地理学についての技術的な議論が対象となってのことだ。こういう議論なら、金儲けにも一役果たすかもしれない、とスウェーデンの銀行家に思われたのであろう。




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