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佐高信・寺島実郎「この国はどこで間違えたのか」


佐高信と寺島実郎の対談「この国はどこで間違えたのか」を読んだ。佐高はほんの最近読み始めたばかりだが、寺島の方は雑誌「世界」に連載中の文章など、すでにいくつか読み進んできた。佐高は自称他称とも左翼であり、旧社会党や現社民党を支持するなど一貫して左向きの姿勢をとってきたようだが、寺島の方はどちらかと言えば、中道保守的なスタンスを取ってきた。ところが、最近はそんな寺島でさえ、世間では左向きの論客として見られているという。それは、世間全体が大きく右に傾いたせいで、中道が相対的に左になったせいだ、と寺島本人が語っているとおり、いまの日本は右寄りのタカの天国になっている(「いまの日本はタカ派ばかり」と佐高がいうとおりだ)。

寺島の中道保守的なスタンスは、原発をめぐる彼の姿勢によく表れている。3.11後に脱原発の空気が漂い始めた時、寺島はいち早くそれを批判し、日本として原発を維持していく必要性を訴えた。その理由は、いまや日本は原子力分野での世界的なリーダーであり、アメリカの原子力政策も、日本の原子力技術を前提にして成り立っているくらいだ。そういう状況の中で、世界の趨勢を考えず、国内事情だけをもとにして脱原発を叫ぶのは無責任だというものだった。その理屈には、原発の維持には絶対的な価値があるという予見が沁みついていたように思える。

しかし、その後考えを改めたらしく、原発政策について、ベスト・ミックスということを言いだした。ベスト・ミックスというのは、エネルギー源として複数のものを使いながら、そのベストの組み合わせを追求しようというものだ。つまり、原発をいくつかの選択肢の中の一つとして位置付けようというもので、その相対的な価値に着目しようではないか、と言う考えだ。この考えは、原発に絶対的にこだわることをしないという点で、将来、場合によっては脱原発に向かう可能性を排除しないということだろう。

このように、原発政策ひとつとっても、寺島のスタンスには、中道から左へのブレがみられる。単に世論のなかでの相対的な立ち位置が左になったということではなく、寺島自身が意図して左に傾いたということだろう。

この対談のなかで、二人から伝わってきたのは、時代への強いこだわりだ。佐高は敗戦の年の生まれ、寺島はその二年後だからいわゆる団塊の世代の走りだ。佐高にも戦後世代のフォア・ランナーとしての時代意識はあるようだが、寺島の方は、団塊の世代のフォア・ランナーとして、もっと強い時代意識を持っている。筆者も昭和23年生まれとしてこの団塊の世代に属しているので、その立場から筆者なりに時代を見つめてきた。その結論のようなものとして筆者が達観するようになったのは、団塊の世代と言うのは、顔を持たない世代だということだった。顔、とはヒーローと言い換えてもよい。ヒーローと言うのは、多かれ少なかれ、彼が属している集団の本質的な要素を体現しているものだ。ナポレオンはフランス革命に疲れた世代の安定志向のようなものを体現していたのであったし、ジョージ・ワシントンはイギリスからの独立とアメリカ人の自由とを体現した人物だった。ところが、だ。段階の世代にはそのヒーローがいない、あるいは、いたとしてものっぺらぼうな顔つきをしている、というのが筆者の率直な思いだった。

団塊の世代と言うのは、ひとりとしてヒーローを生み出すことがなかった。一人の長嶋茂雄さえ生み出さなかったのである。そんななかでただひとり例外的な人物がいる。村上春樹だ(昭和24年生まれ)。だが、村上春樹を世代の顔とすることには異論も多いだろう。実際、佐高のほうは村上に反感を覚えているようだ。その理屈が面白い。

佐高は田辺元を引用しながら、この世は類・種・個からなっているという。類とは人類のこと、個とは無論個人のことだ。その間に挟まれて種がある。種と言うのは、民族(人種)とか国家とかいったものだ。世の中はこの三つの要素からできている。ところが村上は、この三つから種を排除してしまう。彼の文学は、個人がいきなり人類全体と向き合っていて、その間にあるはずの国家とか民族と言った要素が抜け落ちている(つまり種なし文学だ)。これは、本当の世の中の姿から目をそらせた、いかがわしい姿勢だとして、佐高は非難するのである。

その非難を、寺島も批判しない。それどころか、村上は国家の問題をパスすることで、コンフリクトに巻き込まれるリスクを回避しているといって、佐高の村上批判に同調するのだ。

これには筆者も笑ってしまった。村上が、民族や国家の問題を避けていないことは、たとえば「ねじまき鳥クロニクル」を読めば十分に伝わってくる。村上は、民族や国家の問題を避けているわけではなく、それを取り上げる時には、個人や人類のレベルからみて、いづれもあるべき姿から逸脱した、マイナーな要素として物語っているに過ぎない。それが、佐高や寺島には、気に入らないというわけは、彼らが精神の深いところで、独自のナショナリズムの虜になっている証拠だろうと思われる。彼らにとっては、個人も人類も、国家との関連においてしか考えられないもののようである。




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