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内田樹「私家版・ユダヤ文化論」


内田樹のユダヤ人論「私家版・ユダヤ文化論」を読んだ。日本人の内田が何故ユダヤ人に強い関心を抱くようになったか。内田自身は、自分の師であるエマニュエル・レヴィナスがユダヤ人であり、ユダヤ人であることに強くこだわり続けてきたことに感化を受けたという趣旨のことを言っているが、それのみではないようだ。ユダヤ人が、知の分野から金儲けの分野に至るまで、広い領野で圧倒的な存在感を示し続けてきたことに、ある種の畏敬を感じ、それがユダヤ人への強烈な関心につながっていったということらしい。

ユダヤ人の卓越ぶりを、知の分野で検証するには、とりあえずノーベル賞の受賞者(特に自然科学分野)に占めるユダヤ人の割合を見るとよくわかると内田は言う。2005年までのノーベル賞受賞者のうち、医学生理学賞は182名中48名(26パーセント)、物理学賞は178名中44名(25パーセント)、化学賞は147名中26名(18パーセント)が、ユダヤ人だった。世界人口に占めるユダヤ人の割合はたったの0.2パーセントだから、この数字がいかにすごいか直観出来ようというものだ。

ユダヤ人の知的貢献は、歴史上の偉人の名前を並べただけでもわかる。内田が挙げている名は、スピノザ、カール・マルクス、フロイド、エマニュエル・レヴィナス、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・デリダ、アルバート・アインシュタイン、チャーリー・チャップリン、ウディ・アレン、ポール・ニューマン、グスタフ・マーラー、ウラヂーミル・アシュケナージ、リチャード・ドレイファス、スティヴン・スピルバーグ、ロマン・ポランスキー・・・。これは内田の個人的な嗜好を色濃く反映したリストであり、中にはチャップリンのように事実誤認と思われる名も入っているが、とりあえずユダヤ人の活動ぶりを俯瞰するには十分だと思われよう。

ユダヤ人には何故、かくも卓越した知的貢献が可能だったのか。内田のこの本は、そんな素朴な疑問に、内田なりの回答を与えることをテーマとしている。

ユダヤ人の知的卓越性について内田は、「ユダヤ人の際立った特徴は、非ユダヤ人が個人的努力を通じて錬成しているこの知的資質の開発を、集団的に行っているように見えるということである」と言っている。つまりユダヤ人は、集団的に知的能力の錬成に努めているがゆえに、非ユダヤ人に比較して卓越した知的貢献をなしとげてきたというわけである。

では何故、ユダヤ人はそのような動機に駆られるようになったのか。この疑問について内田は、サルトルと師レヴィナスの説を引用しながら考察している。ごく単純化して言えば、ユダヤ人は非ユダヤ人に外部から強制されることによってそうなったというのがサルトルの社会構築主義的な見方であり、そうではなくユダヤ人の宗教的な動機にもとづくのだとするのがレヴィナスの内発主義的な見方である、ということになるらしい。サルトルによれば、「ユダヤ人とは反ユダヤ主義者が作りだした社会構築的な存在である」ということになり、レヴィナスによれば、ユダヤ人とは「神が『私の民』だと思っている人間」のことであるということになるわけである。

どちらの見解に立つにしても、ユダヤ人の卓越性がユダヤ人の非ユダヤ人による迫害と関係がありそうだということになる。ユダヤ人は迫害されてきたが故に、集団としてそれに立ち向かわねばならなかったし、また、それに立ち向かうには、知的卓越性が大きな武器になった。彼らはユダヤ人として(民族としてではない)生き残るには、知的に卓越した人間集団であらざるを得なかったのだ。

ところで、ユダヤ人の知的卓越性は、とりわけイスラエルに居住するユダヤ人社会を中心に、劣化している兆候があると指摘されている。イスラエルはシオニズム運動の果実として出来たものだが、そのイスラエル国家は対アラブ世界の関係では抑圧的な姿勢を取る一方、内部的には超伝統主義者の台頭が著しいといわれる。つまり、これまでの被抑圧者としての立場から抑圧者の立場に変転し、コスモポリタン的な姿勢から超伝統主義的・内向的な姿勢へと転換したわけだ。

抑圧的な立場や超伝統主義的な立場が、即知的劣化につながるとは限らないかもしれないが、イスラエルの場合には、そういう兆候が明瞭に見られるようだ。その証拠に、イスラエルのユダヤ人から、知的巨人が出現したという話を、近年ではほとんど聞かない。

イスラエルのユダヤ人だけではない。いまや世界に住むユダヤ人が活躍する分野と言えば金儲けに関連した分野に偏っていると言っても過言ではない。世界の金融市場におけるユダヤ人の存在感はいまだに圧倒的だ。彼らは、自分たちの利益を極大化するために、自由貿易などを梃に経済のグローバル化を狙っている。グローバル化と言うのは、コスモポリタンとしてのユダヤ人に都合の良い新たな経済秩序なのだ。世界はユダヤ人のために、ユダヤ人はユダヤ人のためにある、というのがその隠れたスローガンだ(こんなふうに言うと、内田が批判している「ユダヤ陰謀説」と変わりがなくなるみたいだが)。

ところで、この本には日本におけるユダヤ人論の歴史が触れられている。日本人とユダヤ人とではほとんど接点と言えるものが無いように思われ、したがって日本でユダヤ人論が流行る余地はないと思えるのだが、実はそれがあったというのだ。日本におけるユダヤ人論は、日猶同祖論のような奇妙なものから、ユダヤ陰謀史観まで幅広いが、それらがすでに明治大正期から一定の生息環境を確保してきたということらしい。何故そんなものが生息して来たのか。ワケが判らないと思われるかもしれないが、背景は意外と単純だ。周知のように、明治以降の日本は、西洋の文物なら何でも、消化しないままに取り込んできた。西洋産の思想ならどんなものでもよかったのだ。ユダヤ人論もまた、そんな安易な理由から輸入された、と思えば、何のことはない。




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