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斎藤美奈子「ほめころしとけなしあげ」


表面的には相手を褒めていると見せかけて、その実はけなしているというレトリックを、俗に「ほめころし」という。それなら、その反対、つまり相手をけなしているように見えて、実は褒めている、ということもあってよさそうだが、こちらの方はあまり聞いたことがない。ところが、そういう例を探し出して来て、それに名前まで付けた人がいた。ユニークな文芸批評で知られる斎藤美奈子女史だ。

女史は、読書誌「図書」の最新号(2015年4月号)の記事(「文庫解説を読む9」)で、松本清張作品への平野謙の文庫解説をとりあげ、平野が「点と線」や「ゼロの焦点」を、推理小説としては推理の設定がお粗末だとけなしておきながら、それにもかかわらず優れた作品だと書いているのを、これは、相手をけなしているかのように見せかけながら、その実褒めているのだと評している。

また、有栖川有栖の松本作品への文庫解説においても、はじめはさんざんくさしておきながら、最後には一転して褒めていることを取り上げ、平野や有栖川のやり方は「ほめ殺し」ならぬ「けなし上げ」だと言っている。

「けなし上げ」とはよく言ったものだ。だがこう言うことで、彼女はレトリックの妙を楽しんでいるわけではない。作品解説には「けなし」の部分も必要なのだと言っているのである。作品はけなされることで、ほころびやほつれが表面化するが、それがきっかけで新しい読まれ方が生まれる。すぐれた作品というのは、常に新しい読まれ方に耐えるものなのである。それでこそ、「クサされて浮かぶ瀬もある松本清張」ということにもなるのだ。

女史がこのように言うのも、日頃から文庫解説なるものに不満があってのことのようだ。女史はこの「文庫解説を読む」というシリーズで、文庫解説というものがいかに解説の体をなしていないか、口がすっぱくなるほど言っている。それらの殆どは、作品の解説をそっちのけにして、解説者の私見をダラダラと述べる場になっている。読者が知りたいのはそんなことではなく、作品が書かれた背景や、その作品が作者の作家活動や文学史の中で占める位置など、作品を理解するうえで必要な最低限の情報なのに、解説者は、どうでもいいようなことを延々と喋り散らしている。そんな不満が、このシリーズからは伝わって来るのだ。

筆者もそれは同意見だ、文庫解説に限らず、日本の文芸批評と言うのは、作品の批評と言うよりも、作品をダシにして批評家が私見をダラダラと述べる場になっている。

これには、日本の批評の神様と言われた小林秀雄の悪い影響が強く作用しているためだと筆者などは思っている。小林の批評は、作品についての批評と言うよりも、作品をダシにして小林本人の言いたいことを言いたいように言っている、という印象が強い。それでも小林の文章が曲がりなりにも読むに堪えているのは、小林の文章には小林なりの読ませどころがあるからだ。そこは小林の才能の賜物と言ってよい。

小林流の批評は、小林の才能の上で成り立っている。だから、小林程の才能を持たない者がそれを真似すると、どうにも食えない代物になるわけである。

こうした事情を背景にして女史の文章を読むと、日本の批評の問題性というものがよく見えて来るのではないか。




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