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ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む


ドゥルーズ=ガタリの共著「千のプラトー」は、二人の最初の共著「アンチ・オイディプス」の続編と受け取られている。「アンチ」の刊行が1972年、「千の」の刊行が1780年だから、八年の合間がある。その合間に「カフカ マイナー文学のために」を刊行している。「カフカ」はやや特殊な問題関心から生まれたもので、かれらの大筋の問題意識は「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」を貫く資本主義批判にあったと思う。実際この二つの著作には「資本主義と分裂症」という総題が付されているのである。そんなことから、この二つの著作は資本主義批判を目的とした姉妹作というふうに見られている。かれらが資本主義批判を行ったのは、資本主義こそが西欧文明の最後の姿であり、それを乗り越えることなしには、新しい時代は切り開けないと考えたからだろう。なにしろドゥルーズは、フーコーやデリダとともに西洋哲学を解体して新たな思想を確立しようと模索した哲学者だ。その哲学者が、ガタリという盟友を得て、資本主義批判を徹底させたことにはそれなりの理由がある。

「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」が姉妹作だといっても、両者にはかなりの相違がある。まず体裁が違うし、内容的にも相違がある。内容から言えば、「アンチ・オイディプス」は、題名から想像されるようにオイディプス・コンプレックスを中核とした精神分析の徹底的な批判である。かれらが精神分析を目の敵にするのは、それが資本主義の矛盾を糊塗し、資本主義の命脈を保つことに齷齪しているからだと思うからである。だから資本主義を批判しようと思うなら、精神分析では役に立たないのであり、別の原理を援用せねばならない。その別の原理をかれらは精神分裂症に見た。精神分裂症というと、精神病の一種であり、とかく否定的に思われがちだが、かれらはその分裂症に、資本主義を批判するための理論的な武器を求めた。かれらの考える分裂症的な原理とは、西洋の思想的な伝統とはかなり異なったものである。西洋の思想的な伝統は同一性のうえに根拠づけられてきたが、分裂症的な原理は、その同一性を打破して、差異を差異としてそのまま受け入れるものである。単純化して言えば、西洋の思想的な原理である同一性の原理が資本主義を支えてきたのに対して、かれらはそれに対置させる形で分裂症的な原理を持ち出す。それは差異の原理である。差異という観点から、世界を解釈しなおす試みは、ドゥルーズがすでに「差異と反復」及び「意味の論理学」の中で行っていたことである。それをドゥルーズは、ラカン派の精神分析家だったガタリと協力しながら、一段と深いところまで掘り下げて分析したということではないか。

著作の体裁という点でいえば、「アンチ・オイディプス」が、かなり体系的な資本主義批判になっているのに対して、「千のプラトー」のほうは、さまざまな分析視角を自在に組み合わせてアトランダムな印象の展開ぶりを見せている。だから、体系的な感じがしない。アトランダムに書かれた文章だから、どこから読んでも差し支えない。じっさい著者たち自身が、この本はどこから読んでもさしつかえないと断言しているのである。そういう自在さは、「意味の論理学」にもあった。「意味の論理学」は、「差異と反復」によって一応確立した差異の思想を敷衍する形でさまざまな問題領域にわたって自由自在に論じたものだ。普通の意味での章編成はとらず、セリーの並置という形をとっている。セリー相互の間には論理的な前後関係はないから、どこから読んでもさしつかえない。セリー相互は様々な要素を通じて結びつくこともあり、どのセリーがどのセリーとどんな形で結びつくかはかなり偶然に作用される。

それと同じことが、「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」の間にも指摘できるかもしれない。「アンチ・オイディプス」は精神分析の批判を通じて資本主義の乗り越えをめざしていた。その際に、その乗り越えの武器とされたのが分裂症的な差異を差異としてそのまま受け入れるような自在さであった。その自在さは、無手勝流のものではなく、一応欲望の原理に従っている。欲望をそのままに受け入れ、その可能性を最大限実現させようというのが、分裂症の原理である。かれらにとって分裂症的な原理とは、資本主義さえも内在させている欲望の衝動をそのままに実現させるべき原理なのである。したがって分裂症的な原理とは、欲望解放のための原理なのである。

「千のプラトー」は、十五のプラトーで構成されている。プラトーとは、彼らの定義によれば、常に真ん中にあり、始めでも終わりでもなく、もろもろのプラトーが組み合わさってリゾームとなる。そして一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わっている。オルガスムは瞬間的なものであり、プロセスの終わりにあるものだが、プラトーは始まりも終わりもなく、連続した流れだというのである。そのプラトーをセリーと比較することは乱暴だが、「意味の論理学」がセリーの組み合わせだとすれば、「千のプラトー」はプラトーの組み合わせである。プラトーの組み合わせはリゾームになるとかれらは言っているから、この本は一種のリゾームだということになる。リゾームついては、別途あらためて取り上げたい。

ここでひとつ確認しておきたいことは、かれらがこの著作で目指したのは、差異と欲望の原理から資本主義社会を分析するのみならず、人間社会を動かしている原理を分析するということだ。その原理とは、かれらによれば、欲望の解放であり、その解放は同一性ではなく、差異の原理にしたがってもたらされるのである。(テクストは宇野邦一ほか訳「河出文庫」版を用いた)




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