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ミクロ政治学と切片性 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む |
「千のプラトー」の第九のプラトーは「1933年―ミクロ政治学と切片性」と題する。1933年はヒトラーが権力を掌握した年だ。ということはこのプラトーのテーマにヒトラーがかかわりあることを示しているようである。そのヒトラーが喚起する政治的イメージを「ミクロ政治学」というのか。一方「切片性」という言葉は何を意味しているのか、よくわからないところがある。切片とは、文字通り切れはしという意味もあるが、数学の用語でもある。ドゥルーズは、若い頃から数学の概念を援用するのが好きだったから、ここでも数学的な概念としての「切片」という言葉を使ったということはありうる。数学的な概念としての切片は、座標軸上の線にかかわるものである。X軸とY軸からなる二次元の座標上で、方程式であらわされる線(直線あるいは曲線)が、X軸あるいはY軸と交差する点を切片というのだが、ドゥルーズの切片の定義は、どうもそれからはずれているようである。ドゥルーズはかつて、数学の概念である微分というものについて、数学の専門家からバカにされるようなことを言っていたが、この切片という言葉の使い方にも、彼一流の恣意性が指摘できないでもない。 このプラトーは次のような言葉で始まる。「われわれは、あらゆる角度から、あらゆる方向に切片化されている。切片性 segmentalité は、われわれ人間を構成するすべての地層に含まれる。住まいと往来、労働と遊びなど、経験の世界は空間的に、また社会的に切片化されている。住居は各部屋の用途にしたがって切片化され、街路は都市の秩序にしたがって、工場は労働や作業の性質にしたがって切片化される」(宇野ほか訳)。一応これが、切片化という言葉の定義といってよいのだが、この言葉から何か具体的なイメージが沸くとも思われない。すくなくとも、ドゥルーズが好きな数学の概念としての切片とはあまり縁がないようだ。 それでは先へ進めないので、もうすこし忍耐強く、この切片という言葉の意味を探ってみたいと思う。かれらは切片性を、われわれ人間を構成するあらゆる地層に含まれる、と言っている。地層というのは、ある時代の人間の生き方に枠をはめるような役割を果たすものと考えられている。その枠に切片が含まれているというわけだ。地層はいろいろな要素からなるが、その要素のそれぞれが切片を含んでいるということか。そういう意味なら、切片とは単なる切れ端のようなものではなく、ある特定の要素を他の要素に向かって解放する窓のようなものとイメージできる。その窓を通じて、様々な要素が相互にかかわりあう、というのがかれらのイメージしているところではないか。 切片には三種類あるとかれらはいう。二元的な対立関係にともなう二項的な切片化、円環状の切片化、線形の切片化。このうち線形の切片化は、数学における切片の概念に似ていなくもない。もっとも意義の大きいのは二項的な切片化であろう。人間の認識は二項対立に基づくところが大だからである。 ところでかれらは、切片性の概念は、「いわゆる未開社会を説明するために、民俗学者によって構築されたものだ」と言っている。「未開社会には確固とした中央集権型の国家装置もなければ、包括的な権力も、専門的に分化した政治機構もないために」、それにかわって社会を結びつける原理が必要になる。それを切片性というわけだ。だが、切片性は未開社会だけに特有のものではなく、発達した近代社会にも存在する、とかれらは言う。切片性には、「未開」で柔軟なタイプのものと「近代的」で硬質なものとがあるのだ。 そのように踏まえたうえでかれらは、近代的で硬質なタイプの切片性について分析を深める。その分析はファシズム論につながる。だからこのプラトーの意図はファシズムを分析することにあると読者は納得させられる。切片性などというわけのわからぬように思える概念を持ち出してして、ファシズムを分析しようというのが、このプラトーの意図なのだと読者は気づかされるのである。 近代的な政治現象は二つの要素からなると彼らは言う。一つは国家権力を中心とするマクロ政治学ともいうべきもの、もう一つは群衆のエネルギーによって動かされるミクロ政治学ともいうべきものである。このうち切片は、主としてマクロ政治学と深いかかわりを持つ。切片は、未開社会にあっては、国家権力の不在を補う接着剤の役割を果たしていたのだったが、近代社会においては国家権力と深く結びつくのだ。マクロ政治学が対象とする国家はモル状組織であり、ミクロ政治学の対象たる群衆は分子状の流れである。その二つが独特の流儀で結びつくことでファシズムが成立するとかれらは考える。ファシズムとは、群衆の分子状のエネルギーを掌握した運動体が、国家権力をかすめとることで生まれるのだ。 ファシズムと全体主義は、ドイツやイタリアでは強く結びついたが、本来は別のものである。ファシズムを伴わない全体主義がある。たとえばスターリン主義体制だ。スターリン主義はファシズムとは異なって、古典的な中央集権化を体現している。それに対してファシズムは、古典的な中央集権化をはみ出す群衆の動きに基礎をおいている。「ファシズムを危険なものに変えるのは、それが群衆の運動であるという意味で、ミクロ政治学的なあるいは分子的な力能だ。つまり全体主義の有機体ではなく、むしろ癌におかされた身体である」。 ファシズムが癌におかされた身体にたとえられるのは、ファシズムが群衆の盲目的なエネルギーに支えられており、そのエネルギーが、癌細胞のようにコントロールのきかないものだからである。それに対して全体主義は国家と結びつき、一応コントロール可能である。つまり保守的なのである。「全体主義はすぐれて保守的なものである。だがファシズムには、明らかに戦争機械が関係している。そしてファシズムが全体主義国家を築きあげるのは、国家の軍隊が権力を掌握するという意味ではなく、逆に戦争機械が国家を奪取するという意味なのだ」。このように整理したうえでかれらは、このプラトーを次のような言葉で結んでいる。「いわゆる全面戦争とは国家による企てというよりも、むしろ国家を手中におさめ、絶対戦争の流れを国家に貫通させる戦争機械が企てるものであり、このとき絶対戦争には国家の自滅以外に、もはやいかなる結末もありえないということだ」。まるで第二次大戦で自滅した日本にあてはまるような指摘である。 |
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