知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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デカルトの情念論


デカルトは、精神と物体とをそれぞれ異なった本質を持つ二つの別個の実体として区別した。しかもこの世界には、神をのぞいては、この二つの実体より以外には本質的なものは何も存在しないのである。

世界は精神的な実体と物質的な実体とからなっている。精神的な実体とは考えるこの私であり、物質は私以外のあらゆるものである。そしてこの両者は本質において、互いに似ているところはない。

このようなデカルトの二元論は、認識論上の議論を存在論の枠組みの中に無造作に組み入れた結果起こったことである。「私は考えている」ということと「私は存在する」ということとは、よってたつ議論の地平が次元を異にしているにもかかわらず、デカルトはこの二つをアプリオリに「イコール」記号で結びつけてしまったのだ。

そのデカルトにとって人間とは不可思議な存在者であった。何故ならそこでは精神という実体と物体としての身体とが分かちがたく結びついているように思えるからだ。

デカルトのたどりついた前提からすれば、精神の動きとしての私の心の働きと延長としての私の身体とは、どこまでも平行して交わることのない二本の線のようなもののはずである。しかし自分の心の中をよく観察してみると、それが身体の動きと密接な関係をもっていることに気づかされないではいない。

こうして晩年のデカルトは、心身の相互関係の研究に没頭するようになった。「情念論」は、心身二元論の立場からする、心と身体との関係についてのデカルトのとりあえずの回答である。

デカルトによれば精神が身体を最も強く意識するのは感覚においてである。感覚には三種類のものがある、とデカルトはいう。ひとつは、いわゆる五感を通じて外的な対象を認知するもので、外部感覚という。二つ目は、痛みや快感など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚という。三つ目は、恐れや欲望など、普通「情念」といわれるものである。

これらの感覚を私はどのようにして感ずるのであろうか。精神と物体とが互いに無関係であれば、わたしが自分の心の中にこれらの感覚を感ずるのは、どのようなメカニズムによるのか。

デカルトは精神の働きの中に、能動と受動という面白い原理を持ち込むことによって、これを説明しようとした。これによれば、精神が精神に対して能動的に働くときに意志が生じ、精神が身体に対して能動的に働くときに身体への統制が生じる。また精神が精神に対して受動的になるときには、純粋に知性的な対象についての認識が生じる。そして、精神が身体に対して受動的になるときに感覚が生ずる。

つまり感覚とは、精神の身体に対する受動態としての現象と考えられている。このことは、情念が Passion (受動)という言葉で語られていることに符合する、とデカルトはいっている。

だが、そもそも全く存在基盤を異にして互いに関わることのない二つの実体が、何故このような形で働きかけあうのか、疑問が残る。その疑問については、デカルトは何も答えていないし、言及さえしていないのだが。

この疑問をバイパスする形でデカルトが持ち出しているのは、松花腺についての有名な説である。松花腺はデカルトの時代にすでに、解剖学的に確認されていた脳内の部位である。デカルトはこれを、心と身体との交流点であると推測した。心の座であるともいっている。

デカルトの理解していた脳は、大部分が空室からできていて、その中を動物精気と呼ばれる気体が充満している。脳の空室は前後に分かれており、その中間の狭い通路に松花腺が位置している。心身関係は空室内の動物精気の動きが松花腺を刺激することによって生ずるのだ。

脳は神経によって身体のあらゆる部分と結ばれている一方、松花腺自体が心の座であるから、人間は脳とその中の松花腺の働きによって、身体の状況を感覚として認知できる一方、その意思を身体の各部位に伝えて、思うような運動をさせることができるというわけである。

この辺はいかにも首尾一貫したデカルトらしい議論が展開されているのだが、そもそも何故松花腺が心の座として、身体と精神との間を媒介するのか、この肝心な点については、我々は何も聞かされることがないのである。

この疑問は脇へおいて、情念に関するデカルトの議論を見てみよう。

情念は、たとえば恐れのように、ある対象を認知したときに、それを心の中で激しい感情として感ずるとともに、身体のこわばりであるとか心臓の動悸であるとか、身体的な反応とも結びついている。これはわたしの感覚が、一方では身体的な反応を引き起こすと同時に、わたしの心に働きかけて情念を呼び起こしているからだといえる。

このことから情念は感覚と深く結びついているものであることがわかる。つまり身体を起源として精神のなかに生ずる現象だといえる。その限りで感覚の一種だといえなくもない。だがそれは通常の感覚とは異なり、情動とよばれる激しい感情を心の中に呼び起こす、あるいはそうした情動が心そのものをとらえるのだと言い換えることができる。

さまざまな情念の中でもっとも根源的なものは「驚き」だと、デカルトは言う。これは精神が受ける突然の不意打である。不意打ちを受けた精神はそれがどんなものか、身構えながら注視する。その結果それがよいものとして現れるならば「愛」の感情が、よからぬものとして現れるならば「憎しみ」の感情が生まれる。

愛と憎しみとはさらに、それを獲得したい、あるいは排除したいという「欲望」を生む。その欲望が満足されれば「喜び」が、そうでなければ「悲しみ」が生まれる。

このようにデカルトは対象との関係において、情念を以上の六つに分類している。この分類法そのものはトマス・アクィナスによる情念の分類と基本的には異なるものではない。違いはトマスが各種の情念の間に上下の差別をしなかったことに対して、デカルトが「驚き」を根源的なものとして位置づけていることにある。





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