知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




アドルノ&ホルクハイマーの文化産業論


アドルノとホルクハイマーが「文化産業」という言葉で指し示しているのは、映画、ラジオ、テレビといった大衆的な文化のジャンルである。これらはみな二十世紀になって花開いた。これらがそれぞれ登場したときには、映画産業とか、ラジオ産業とか、テレビ産業というふうに、個々の分野について産業という言葉が使われものだが、アドルノとホルクハイマーはそれらを一括して「文化産業」と言ったわけである。

十九世紀までは、文化と産業とは人間社会のそれぞれ違った分野について使われた概念であって、この二つが結びつくことはなかった。ところが二十世紀の大衆社会においては、大衆を相手にした文化は産業という形態を取る。文化産業とは、二十世紀における、つまり後期資本主義社会における、文化のあり方を示しているわけである。

文化産業のうち最も早く確立されたのは映画である。その映画について哲学的な考察を加えた最初の人としてベンヤミンがあげられるが、ベンヤミンは映画を複製芸術という概念を用いて説明した。ベンヤミンにとって映画は、まだ生れたばかりのメディアであり、さまざまな可能性を孕んだものとして受け取られた。その可能性の中で彼が最も重視したのは、芸術が人間の解放に果たす役割である。映画もまた芸術の一ジャンルとして、そのような開放的な役割を果たせるのではないか、そうベンヤミンは期待したのである。

アドルノとホルクハイマーは映画を芸術だとはみなしていない。映画はラジオやテレビとともに文化産業の一ジャンルに過ぎない。芸術ではなく産業、つまりビジネスなのである。それも後期資本主義時代のビジネスとして、資本主義の原理を貫徹することを使命とする、言ってみれば階級支配のためのビジネスモデルなのだ。

彼らがそう思うに至った理由は、時代と社会の変化にあるだろう。ベンヤミンは二十世紀初頭のヨーロッパにあって、映像芸術の新たな形態としての映画に何がしかの期待を感じることができた。アドルノとホルクハイマーは、ナチスに追われてアメリカにやって来たが、そこで見たのは金儲けのシステムとしての文化産業の繁栄だった。ラジオやテレビを芸術だと思うような人間はヨーロッパにもいないかもしれぬが、アメリカはそれよりもっとドライに、ラジオやテレビなどは金儲けのビジネスなのであり、映画もその点では全く異ならない、というふうに割り切って考えていた。そんなアメリカを見たら、映画を含めた「文化産業」に芸術的な価値を認めたり、それに人間を解放する前向きなイメージを付与しようとするのはナンセンスに映ったわけだ。こういう見地からアドルノとホルクハイマーは、映画を含めた文化産業について、その歴史的・社会的意義を考察しようとするのである。

アドルノとホルクハイマーは文化産業の本質を、労働者に娯楽を提供することで労働力の再生産をスムーズにさせ、以て資本主義的生産関係(システム)を強化することにあるとする。文化産業が提供する娯楽は労働者の解放ではなくて、その抑圧を目的としたものだと言うのである。「娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である。娯楽とは、機械化された労働過程を回避しようと思う者が、そういう労働過程に新たに耐えるために、欲しがるものなのだ」。娯楽は文化産業によって一方的に与えられる。「観客が自分でものを考えることを必要としてはならない。製作された作品が、あらかじめ観客のすべての反応を規定している」(「啓蒙の弁証法」Ⅳ、徳永洵訳)からである。

だから、「文化産業が行うのは昇華ではなく抑圧である」(同上)ということになる。そこが芸術としての映画と文化産業としての映画との違いだ。芸術は人間の感情の昇華と解放をもたらすが、文化産業は人間性の抑圧を目的とする。その抑圧を観客はそれと知らず楽しんでいる。たとえばドナルド・ダックを見ながら、観客はそれに一体化する自分を感じるが、それはドナルド・ダックと同じような不幸を自分も共有するためだ。「風刺漫画の中で、ドナルド・ダックは、現実の不幸な人々と同様に、さんざん痛めつけられる。それは観客が自ら痛めつけられることに慣れるようにするためなのである」(同上)

一方笑いは本来、「肉体的な危険からであれ、論理の罠からであれ、何かからの解放の徴し」のはずだが、「娯楽産業における笑いは、幸福を装う欺瞞の道具になる・・・誤れる社会においては、笑いは病気として幸福を襲ったのであり、幸福をその下卑た全体性の中へ引き込む。何かを笑うとは、いつでもそれをもの嗤いにすることである」(同上)。つまり誤れる社会としての後期資本主義社会においては、笑いは人間性の解放どころか、非人間的な欺瞞を隠す役割を果たしている、というわけである。

自己欺瞞の罠にはまった大衆は、労働者階級としての一体感を奪われ、それぞれが砂の粒々のような存在になる。空間を共通にしていても、それぞれが孤立しているというイメージがそれには付きまとう。「彼らはモナドの集合にすぎず、一人一人が他の一人一人におんぶしながら、衆を頼んですべてをあなたまかせにする楽しみに身をまかせているのだ。そういうハーモニーのうちで、彼らは連帯のカリカチュアを提供している」(同上)

娯楽産業が何か解放のようなものをもしも与えるとしたら、それは「思想からの解放」だ、と彼らは言う。その例として彼らはチャップリンの映画「独裁者」を取り上げる。ヒトラーをカリカチュアライズしたこの映画は、ナチスの全体主義に対する厳しい批判だとする評価が一般的だが、彼らはその見方を皮相だとする。彼らは言う、「チャップリンのヒトラー映画のラストシーンをなす穂波に揺れる麦畑は、反ファシズムを叫ぶ自由の説法を否認するものだ。そのシーンは、ウーファ映画によって撮影された、夏風吹く集団キャンプ生活におけるドイツ娘の金髪のそよぎに似ている」(同上)

つまりこの映画は、一方でチャップリンに反ヒトラーの演説をさせながら、その一方でその演説を聞き流して無効にするような働きを麦畑のそよぎによって表現している。そのことで演説のラジカルな内容は相対化され、というか無効にされ、ただのエンタテイメントに格下げされていると彼らは言いたいようである。この映画は筆者も見たことがあるが、チャップリンがこの演説に込めた意図は伝わってきた。それはヒトラーへの強烈な批判であり、反ファシズムへ向けて立ちあがろうという呼びかけであり、それをヒトラーがまだ全盛期にある時点で主張したということだ。それをチャップリンと同じくアメリカにいながら見ていたアドルノとホルクハイマーは、全く逆の意味に受け取ったわけだ。なにが彼らをしてそこまでシニカルにさせたか、これ自体興味あるテーマであろう。

以上、「文化産業」についてのアドルノとホルクハイマーの認識は非常に暗いものになっている。彼らの認識をそこまで暗く染めたのは、彼らがまさに生きていた時代の暗さだったと思われる。彼らもやはりアーレントの言う「暗い時代の人々」だったのだ。その暗い時代にナチス・ドイツでは、文化産業は国民をホロコーストへ向けて熱狂させていたし、アメリカでは労働者を資本に忠実な僕へときたえあげていた。文化産業は啓蒙の最後の落とし子と言ってもよいが、その啓蒙がそのまま人々を非人間的な罠に陥れている。そこに啓蒙の弁証法の皮肉なしかも典型的な現われを、彼らは見て取ったということになろう。

「パーソナリティとは、彼らにとっては、ほとんど白く輝く歯以外の、腋の下の汗や感情の動きからの自由以外の、何ものも意味しない。これこそ文化産業における広告の勝利であり、同時に(その正体が)透けて見える文化商品に対する、消費者たちの強制されたミメーシスなのだ」。「文化産業」の章はこの言葉で終わっているが、これは啓蒙の行き着く果てが人間の非人間化であることを強調するものだ。





HOMEドイツ現代思想次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである