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アドルノ&ホルクハイマーの反ユダヤ主義論


アドルノとホルクハイマーが反ユダヤ主義に着目したのは、直接的にはナチスのユダヤ人撲滅政策に触発されたのだと思うが、それだと反ユダヤ主義とは単にドイツ・ファシズムの一要素ということになってしまう。しかし反ユダヤ主義はなにもナチスだけの専売特許ではない。それは「ドイツ人の役人からハーレムの黒人にいたるまで」あらゆる国の潜在的ファシストたちの心に巣くっている。それ故現代における反ユダヤ主義は、ヨーロッパ文明の不可欠の要素として、ヨーロッパ文明が自己の内部から産み出した野蛮として理解されねばならない。反ユダヤ主義は啓蒙の弁証法の究極的なあらわれなのである。

ナチスのユダヤ人撲滅政策があまりにも衝撃的だったので、アドルノたちはその衝撃に圧倒されて、科学的な分析に取り掛かる前に茫然自失しているような様子が(彼らの論文からは)伝わってくる。その点では、反ユダヤ主義をヨーロッパの歴史の中に位置づけ、それがヨーロッパのキリスト教文化の不可欠の要素としてそもそものはじめから組み込まれており、歴史の進行とともに節目節目で現前化するうちに、ファシズムにおいて究極的な形をとるにいたったとして、歴史・科学的な分析をしているアーレントとは違う。アーレントの場合には、ナチスドイツが倒され世界大戦が終わったあとで、全体主義の動きを俯瞰的に眺める余裕があったからこそ、こういう視点が持てたのであって、いまだナチスの反ユダヤ主義が猛威をふるっているさなかでは、なかなかそこまでは客観的な目を持てなかったという事情はあっただろう。

ナチスドイツは反ユダヤ主義をドイツ人の全体主義的一体感を高める為の強力なエンジンとして使ったわけだが、それにしても身の毛のよだつようなユダヤ人撲滅はドイツ人特有のパラノイアの現れとしかいいようがなかった。そこに捉われると、反ユダヤ主義はドイツ人の歴史の中で一時的に現れた例外的な現象というふうに見なされてしまうが、そうではない。ドイツの事例は極端なケースであって、反ユダヤ主義自体は、ヨーロッパ文明を謳歌するすべての国に起りうるものである。何故ならそれは後期資本主義の矛盾を反映したものだからであり、そうした矛盾はあらゆる資本主義国が抱えるものなのだ、と彼らは主張する。

後期資本主義においては、労働は生産過程の一要素に(完璧な形で)解消される。労働者は個性を持った人間ではなく、代替の利く部品のようなものだ。労働者を喜ばせる娯楽でさえも、日々の労働を耐えやすいものにし、明日の労働に備えさせるという役割を果たす。こうした社会にあっては、人間性だとか個性だとかいうものは、単に寝言であるにとどまらず有害である。その有害なものを最も強く体現しているのがユダヤ人なのだ。ユダヤ人は後期資本主義においては有害な存在なのである。「ユダヤ人の現存在と現象とは、適応性を欠くために、現存秩序の普遍性にひびを入れる。自分たちの生活秩序を墨守して変えようとしないので、彼らは支配的生活秩序とはしっくりしない」(「啓蒙の弁証法」Ⅳ、徳永洵訳)というわけである。

資本主義の勃興期には、自由だとか平等だとか普遍的な権利だとかいう言葉が語られたが、いまではそんなことを言うのはユダヤ人くらいだ。何故ならユダヤ人にはそういう権利から排除されていた長い歴史があって、近代のいわゆる民主主義的な社会の到来によって、そうした権利が社会の成員にくまなく保証されたときに、その最大の受益者となったという事情があるからだ。彼らはその権利をいつまでも手放したくない。手放した途端に中世以前の無権利状態に陥ってしまうからだ。だからユダヤ人には、どんな現実の国家からも排除される運命にありながらも、その当の国家にしがみついていなければならない事情がある。「国家によって保護された普遍的権利が、彼らの安全の担保であり、例外規定は彼らにとって恐怖の象徴だった」(同上)

ユダヤ人であるアドルノとホルクハイマーが、アメリカで最も強く感じたのは、この安全がアメリカではまがりなりにも保証されているという感情だったと思う。そのアメリカでさえ、黒人にいたるまでユダヤ人を胡散臭い目で見ている。それはアメリカの非ユダヤ人が、ユダヤ人の中に自分たちとは違う人間性のようなものを感じるからだ。そうした感情をアドルノたちは、ニーチェにならって「ルサンチマン」と言う。アメリカの大衆でさえ、ユダヤ人に対してルサンチマンを感じている。それはユダヤ人が自分たちとは違うのだという信念に根ざしている、と言うのだ。

とはいえ反ユダヤ主義がもっともグロテスクな形をとって現れたのはやはりナチスドイツにおいてだ。ドイツにおける反ユダヤ主義の高まりは、無論ヒトラーの権力によって煽られたということもあるが、それのみで説明がつくような生易しいものではない。ドイツ人全体がよってたかってユダヤ人を虐殺したことの背景には、ドイツ人自身のなかにその虐殺を喜ぶ性向が働いていたに違いない。人間というものは他人の指示だけでこんなに残酷に振舞えるものではない。彼自身の内部にそうした残酷さが潜んでいるはずなのだ。

「反ユダヤ主義者たちは寄り集まる。その瞬間のみが彼らを集合させ、似たもの同士の仲間をつくりあげる」(同上)。この仲間たちを捕らえているのは集団的なパラノイアだ。そのパラノイアはアドルノたちによれば、「文明によって片付けられた原始時代のあらゆる恐怖が、ユダヤ人に投射されることによって合理的関心として蘇」ったものだ。つまり啓蒙が抑圧していたものが、啓蒙自身の弁証法的運動の中から呼び覚ました情動なのだ。たちの悪いことは、そうした情動がドイツでは、一部にとどまらずほとんどすべてのドイツ人を捉えたということだ。

こうしてドイツ人を捉えた反ユダヤ主義はナチスという政党の綱領に取り入れられる。「ファシズムに一票を投じる者は、組合の解体や十字軍などとこみにして、ユダヤ人の権利剥奪にも自動的に署名することになるのだ」(同上)。こうして個々のユダヤ人はユダヤ人というスタンプを押されてガス室へ送られる。かくして「かつては社会の全体がそれによって自己を正当化していた、人格としての人間、理性の担い手としての人間という概念は放棄される。啓蒙の弁証法は客観的に狂気へと転化する」(同上)というわけである。

「ファシズムのスローガンの怖さは、まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞の怖さである」(同上)。アドルノたちはこう述べることで、啓蒙が人間性にとって持つ意味と限界とに読者の注意を促す。ファシズムのスローガンのうちに定式化された欺瞞的な表現は、アドルノたちにとっては啓蒙の弁証法が産み出したものなのだ。そう言うことで彼らは、人間には救いがない、と言っているように聞こえる。





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