知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アドルノ&ホルクハイマーのファシムズ論


「啓蒙の弁証法」最終章は、「手記と草案」と題して短いメモのようなものを集めているが、中心となるのはファシズムについての考察である。アドルノらがこの文章を書いたのは1944年以前のことであるから、ファシズムは現在進行形の状態にあった。とくにナチスドイツのファシズム(アドルノらはドイツのナチズムもファシズムと呼ぶ)は人類史上例を見ない残酷さを以て、人間性を蹂躙していた。ユダヤ人であったアドルノらにとって、それをどう受け止め、どう理論化したらよいか、強い戸惑いを感じたに違いない。この章に収められた文章からは、彼らのそういった戸惑いと、人類の敵に対する怒りが込められている。

ファシズムについてのアドルノらの言及は、大まかに言えば、権力者の行動様式への言及と、彼らに権力を握らせた大衆のメンタリティへの言及に別れる。後者はそのまま、啓蒙の弁証法の一つの顕著な事例として、つまり文明が野蛮を産み出したもっとも典型的な例として、分類されるだろう。いずれにしてもファシズムについて語るアドルノらの口調はペシミズムに強く彩られている。

権力を握ったドイツのファシストたちがしたことで、アドルノらが最も我慢できなかったことは、ユダヤ人の撲滅だ。ユダヤ人であるアドルノらにとっては、これは自分たちユダヤ人がこの地球上で生きる資格がないということを宣告されたようなものだった。ユダヤ人には自分を人間であると言う資格もない。彼らに相応しい境遇はガス室に送られることだ。ドイツのファシストたちはなぜこんな無法なことを行うのか。それは自分たちの権力を安全にするために、民族の敵を作り出し、その敵を前にしてドイツ人を一体化させるためだ。ユダヤ人がファシストたちによってドイツ民族の敵とされたについては、それなりの歴史的な背景がある。一番大きな理由は、ユダヤ人が世の中の不正を代表しているという抜きがたい偏見だ。

「ニーチェ、ゴーギャン、ゲオルゲ、クラーゲスといった人々は、たしかに進歩の成果としての名状しがたい愚かしさを認識してはいた。しかし彼らは、そこから誤った結論を引き出した。つまり、現にある不正を告発するのではなく、かつてあった不正を聖化したのだった」(「啓蒙の弁証法」Ⅵ、徳永洵訳)。ここで言及されているニーチェ以下の人物は、ファシストたちが親和的な感情を抱いた人たちだが、彼らが聖化した過去の不正とは人間の間の階層秩序にともなうものであり、そうした秩序の最底辺に、ユダヤ人は常に位置づけられてきた。だからユダヤ人を迫害することは、現在の不正を帳消しにしてくれる作用をもたらすというわけである。

ナチスはまた、ユダヤ人迫害の根拠として優生学的な思想を持ち出し、ユダヤ人は生物学的に劣位な生き物である故に迫害されてしかるべきだという理屈を強調した。「自然によって刻印された弱さは、暴力行為を徴発する標識」(同上)なのである。というのも、「人間は、自分より強い者に何かをして欲しいと頼む場合には弱腰になり、自分より弱いものから頼まれると突っけんどんになる。このことが、これまでの社会における人間の本質を解く鍵なのだ」(同上)。要するに人間というものは、弱いものをいじめるようにできているというわけである。こうした強い者と弱い者との間の弁証法的な関係については、ニーチェが赤裸々に明らかにしたところだが、ドイツのファシストたちはそれを、人間操作のための洗練された手段に高めたのである。

その(権力による)操作の対象となったドイツ人たちは、自分が操作されていることには全く無自覚なまま、嬉々としてユダヤ人迫害に手を貸した。彼らには人間を人間として見る視点、つまり人間的な視点が欠如していためだ。彼らをそうさせたのは啓蒙の弁証法である。啓蒙がその反対物たる野蛮を産み出す。文明の進歩が人間性を原始時代の野蛮な状態に連れ戻す。原始時代には、個々の個人しての人間が存在しなかったと同じく、進歩した文明の時代にも人間性を体現した個人は存在しなくなる。いまや個人はただのモナドである。「モナドが相互に影響しあうことはない。モナド相互の関係を制御し調整するのは、神ないし刑務所の管理者の役目である」(同上)。ナチスドイツでは、この神に相当する役割をヒトラーとその取り巻きの権力者たちが担っていた。彼らにとっては、個々のドイツ人は制御ないし調整の対象である。彼らはそうした仕事を、プロパガンダを駆使しながら遂行する。

「プロパガンダは言葉から、道具を、梃子を、機械を作り出す。それは、社会的不正の下で成長してきた人間たちの組織体制を、彼らを動揺させることによって、かえって固定化してしまう。プロパガンダは、人間たちは計算されうるものだということを計算に入れている・・・真理でさえも、プロパガンダにしてみれば、支持者を獲得するという目的のための単なる手段となる」(同上)

ナチスのプロパガンダの一例としてアドルノたちが持ち出すのは、動物愛護である。ナチスは、動物に対する慈悲を、ある種の物や人間への憎悪に結びつける。ユダヤ人はその、ある種の人間の典型として槍玉に挙げられる。「ファシストが見せる動物や自然や子供たちへの優しさの前提は、迫害への意思である・・・良き反動的伝統の中で、ゲーリングは動物愛護を人種憎悪と結びつけた。よろこばしき殺人へのルター的・ドイツ的快楽を狩猟紳士の上品なフェアプレイの精神に結びつけた」(同上)というわけである。

プロパガンダに踊らされる個々人は、ナチスによる操作の対象として、具体的な生きた人間としてではなく、ただの数字として現れる。つまり計算可能な対象としてだ。プロパガンダもそうだが、コミュニケーションは人々を結びつけるはずのものだったが、いまでは個々人を隔離するために働く。「進歩は文字どおり、人々を互いに隔離してしまうのだ」(同上)

権力者によって操作され、権力者の用意した鋳型にはめ込まれてしまった人間のサンプルとして、アドルノらはチャップリンの映画「独裁者」の中の床屋を持ち出してくる。彼らによれば、この床屋は、「それ自体として見れば無力な個人にすぎないのだが、別の個々人に代って代弁するという形で、十全の権力を体現している・・・チャップリンの映画は、少なくともゲットーの床屋と独裁者の間の類似性を示したことで、ある本質的な点を突いている」(同上)。アドルノらがなぜチャップリンに対してかくも厳しい見方をするのか、短い文章からは十分に伝わってこない。

ともあれアドルノらは、ファシズムの問題性は、現代社会において人間から個性というものが失われ、ただの数になってしまったことにあると見ている。その危機意識はかなり深刻である。というのも、「今日における個性の崩壊は、たんに個性というカテゴリーが歴史的なものでしかないということを教えるだけでなく、個性が積極的な本質を持つことへの疑いをも喚起する」(同上)と言っているからだ。こうした個性の崩壊を合理化しているのが公認哲学だと彼らは言う。いまや公認哲学の任務は、「精神の一種のテイラー・システムとして、その生産方法の改良を助け、知識の集積を合理化し、知的エネルギーの浪費を防ぐことにある。公認哲学には、化学や細菌学に対するのと同じように、分業の中で占める位置が、割り当てられている」(同上)

このように言うアドルノらのペシミズムも、ユダヤ人同胞が毎日のようにガス室送りされているという執筆当時の現実をふまえれば、大袈裟すぎる反応として片付けるわけにもいかないようである。





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