知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




仲正昌樹「現代ドイツ思想講義」


ドイツ思想というのは昔の日本人には大変人気があって、カントやヘーゲルの研究者はそれこそ雲霞の如くいたし、マルクスをドイツ思想に含めれば、日本人にとっての外来思想はほとんどドイツ色一色に染まっていたといってよいほどだ。そんなドイツ思想の勢いも、現代に入ると急に色あせる。戦後の日本人にとっては、かつてドイツ思想が誇っていた地位はフランス人の思想にとって代わられたばかりか、いまや現代ドイツ思想に親しみを覚える人はあまりいないのではないか。仲正昌樹は学校でドイツ研究を専攻した事情もあって、現代ドイツ思想に親しみを覚える数少ない人の一人である。

現代ドイツ思想といえば、フランクフルト学派ということになる。フランクフルト学派というのは、20世紀になって新しくできたフランクフルト大学を拠点にして展開した思想運動で、アドルノとホルクハイマーを第一世代とし、ハーバーマスを第二世代とする。現代批判を大きな特徴とし、とりわけナチスによって遂行された現代ドイツの病理を分析することに力を入れた。言ってみれば、ドイツ人の同時代史についての自己批判を体系化したもの、ということになるだろうか。

フランクフルト学派の実質的な創始者で現代ドイツ思想の中心となったのがアドルノとホルクハイマーだ。興味深いのは、この二人がともにユダヤ人ないしユダヤ系だったことだ。かつてのドイツのアカデミズムは、ユダヤ人の入り込む余地はほとんどないとされていたのだが、新興のフランクフルト大学だったからこそ、彼らユダヤ系でも活躍できる舞台があったのだろう。この二人のユダヤ系学者に、これもやはりユダヤ人であったベンヤミンやアーレントがかかわりあいながら、現代ドイツ思想の骨格が作られたとするのが、穏当な見方と言えよう。

仲正もだいたいそういう認識に立ってこの本を作っている。アドルノとホルクハイマーの主著である「啓蒙の弁証法」の購読に全体の半分のスペースをあて、それに続けてハーバーマスの「公共性」をめぐる議論をつなげ、この二つの中心円の外周部にベンヤミンなど「前フランクフルト」とでもいうべきものの紹介と、フランクフルト以降の現代ドイツ思想の動向についての簡単な紹介がある。言ってみれば、フランクフルト学派を中心にした現代ドイツ思想の俯瞰図のようなものだ。

というわけでこの本の持ち味は「啓蒙の弁証法」をどう読むか、それを提示するにある。「啓蒙の弁証法」を正しく読めば、フランクフルト学派の思想の骨格と現代ドイツ思想の究極的な問題意識が見えてくる、そういう気概のようなものがこの本からは伝わってくる。一国の一時代の思想の動向を一冊の本を手がかりにして浮かび上がらせようと言うのは、かなり無理筋のことのようにも思えるが、現代ドイツ思想についてそれが可能なのは、現代ドイツという空間がかなり特殊なものだということを、図らずして感じさせたりもする。

では「啓蒙の弁証法」という本は何を主張しているのか。仲正に代わってごく簡単に言うと、現代ドイツに焦点を当てながら、ヨーロッパ文明が持っている基本的なパラドックスについてわかりやすく浮かび上がらせたということになる。仲正の議論は微に入り細をうがつようで、それに彼一流の衒学趣味が絡んだりして、まわりくどいのであるが、言っていることは意外と単純なのである。

ヨーロッパ文明のパラドックスとは何か。普通、文明は進歩と同一視され、文明が進歩すればそれに従って人間の生活も(物質的にも精神的にも)進歩すると考えられている。だが果たしてそうだろうか。そうではないというのが本当のところではないか。たとえば20世紀のドイツは、物質的な文明という面では19世紀のドイツに比べて格段の進歩をした。しかし、その進歩はドイツ人にとって前向きの、手放しで喜ぶべき、言い分のないものだったかというとそうではない。その証拠にドイツは二度にわたって戦火の蹂躙するところとなり、またナチスが政権をとった時代においては、精神面で大いに野蛮な状態に陥った。これをパラドックスと言わずしてなんと言うべきか。やはり弁証法というべきだろう。弁証法というのは、定立されたものに対して、それを否定するものが反定立という形でかならず現れる。歴史は一直線で進んでゆくものではないのだ。そういうジグザグで気まぐれに見える運動のあり方をアドルノらは「啓蒙の弁証法」と名づけた。啓蒙とは進歩と同じような意味合いの言葉だ。だから「啓蒙の弁証法」とは、文明の進歩がもたらすジグザグな運動を観察しながら、その運動の中であらわれる否定的な側面に注目しようとするものだと言えよう。

文明の進歩と見えるものが実は野蛮をもたらす、という問題意識はアーレントも共有していた。彼女はユダヤ人として、ヨーロッパのユダヤ人がこうむってきた迫害の歴史に焦点をあて、ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害が、ヨーロッパ文明の進歩によってかえって深化してきたということに思い当たった。ナチスによるユダヤ人へのホロコースト的な迫害はその究極の形態である。この迫害は、ヨーロッパ文明が未熟だから起ったわけではない、かえってヨーロッパ文明の進歩の結果だったのだ。アーレントはこのように押さえた上で、そうしたヨーロッパ文明の進歩を支えているイデオロギーをキリスト教に見出し、キリスト教こそがヨーロッパの野蛮さを醸成してきた張本人だと結論付けたわけだ。それ故アーレントは、キリスト教にかわる別のオルタナティブを提示する必要に駆られ、キリスト教以前のヨーロッパ文明の華であったギリシャ文明を持ち出したわけであろう。アーレントの本音では、キリスト教に代えてユダヤ文化をあげたかったに違いない。しかしヨーロッパの知的風土にあっては、そんなことは絵空事である。そこで次善の策としてギリシャを持ち出したというのが本当のところだろう。

以上は筆者の勝手な想像で、仲正はそんなことは全く言っていない。第一彼は、アーレントやアドルノたちがユダヤ人であったことにもほとんど注意を払っていない。そのため、アーレントやベンヤミンとアドルトやホルクハイマーとの間で思想的な交流があったらしいことをほのめかすだけで、彼らの間の内在的なつながりはほとんど考慮されていない。この書物が、現代ドイツ思想を対象とし、現代ドイツ思想がフランクフルト学派に集約されるとしながら、なぜそうなっているのかについて説得力ある説明ができていないのは、ベンヤミン以下現代ドイツ思想の巨人たちが、時代との戦いから自分の思想を練り上げていったという側面に、あまりにも無頓着なせいだと思われる。

もっとも、アーレントがアドルノを軽蔑していたことがよく知られているように、彼らドイツのユダヤ人思想家たちが深い絆で結ばれてはいなかったことも事実だ。彼らの間には共通性よりも相違のほうが目立つ。その相違のうちでも、現代ヨーロッパ文明に対する評価という点では、アーレントとアドルノは反対を向いているように見える。アーレントはキリスト教に毒されたヨーロッパ文明には明るい未来を見ることがなかったのに対して、アドルノらは、ヨーロッパ文明の否定的な部分をことさらに強調してみせる一方、それをアーレントのようには過激に否定することはなかった。

こうした姿勢は、フランクフルト学派の第二世代といわれるハーバーマスになるともっと強くなる。彼もアドルノたちのように現代ドイツに代表されるヨーロッパ文化の批判に余念がなかったが、そうした批判を通じて、人々の間に公共についての新しい共通概念が醸成され、それをもととしてよりよい文化が形成されてゆくことは可能だと考えた。要するに前向きなわけだ。そのあたりは、ハーバーマスがユダヤ人でないこととも大いに関係するだろうと思う。





HOMEドイツ現代思想|次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである