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徳永洵「現代思想の断層」


徳永洵は、三島憲一と並んでドイツ現代思想の紹介者として知られる。ドイツ現代思想は、フランスの現代思想のにぎやかさに押されて、日本ではいまひとつ流行らなかったが、徳永はそれを根気強く日本人に紹介してきた。とりわけ、フランクフルト学派の紹介で知られるが(「啓蒙の弁証法」を翻訳している)、それはフランク学派が戦後のドイツ思想を代表するものであってみれば、当然のことだろう。

「現代思想の断層」と題したこの本は、ドイツの現代思想を代表する四人の思想家、マックス・ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノを取り上げている。ウェーバーやフロイトなどフランクフルト学派とは何の関係のないものが入っていたり、そのフランクフルト学派をアドルノ一人で代表させていたり、ドイツ現代思想についての普通の受け取り方とはいささか違う趣だが、そこにはドイツ現代思想についての徳永なりの了解が働いているようである。

徳永は、現代思想の開始を20世紀の始まりに見ているが、その20世紀とは「ポスト・ニーチェ」の時代だと言っている(ニーチェの死は1900年)。ニーチェの思想史上の意義は、「神は死んだ」と宣言したことにあるが、その意味は、かつて「歴史と人生に意味を与えていた『最高価値の没落』であり、『何のために』という問いに答えられない『西欧的ニヒリズム』が到来」したことを確認したことにあった。この神なき時代をどう捉えるか、それが20世紀思想の中核的なテーマになったわけだが、ドイツはニーチェの祖国として、この課題に正面から取り組んだ。上記の四人は、その取り組みを代表する思想家たちだと徳永は捉えるわけである。

それ故徳永は、この四人の思想家たちがどのようにニーチェと対決したか、に焦点をあてながら、彼らの思想史上の業績を評価してゆく。いわば、ニーチェを足がかりに20世紀ドイツ思想を読み解こうとする試み、それがこの本の特徴である。

徳永の言い分を大雑把に整理すると次のようになる。マックス・ウェーバーは、最高価値が没落した時代に到来する「価値の多神教」の時代として現代を捉え、こうした分裂を克服して新たな世界の創造に向かって立ち向かうことに現代人の使命を見出した。ニーチェの指摘した価値の空白をどう埋めるか、それがウェーバーの問題意識となった。

フロイトは、人間の欲動を制御してきた一神教的な脅迫観念からの解放を目指したが、それは神なき時代に入ったからこそ、意味を持ったことであって、そこに一見ニーチェとは無関係に見えるフロイトの理論的営みが、深いところでニーチェの問題意識とつながっていることが見て取れる。

ベンヤミンは、ニーチェによるキリスト教道徳の断罪を踏まえ、キリスト教的な世界観からの脱却を目指したが、それはユダヤ神学への復帰という形をとった。ベンヤミンは、ニーチェによるキリスト教の追放で生じた空白を、ユダヤ教の神学とマルクス主義の概念を組み合わせることで埋めようとした。これは世界観の変換といってよい壮大な試みといえる。

アドルノは、「啓蒙の弁証法」が語っているように、文明に対する厳しい批判を展開したわけだが、その批判の視点は、偶像破壊者ニーチェを髣髴とさせる。アドルノは、ウェーバーやベンヤミンのようには、キリスト教にもとづく既存の文明のあり方にとって変るようなカウンター概念は持ち出さなかったが、それは彼が、現代文明に絶望しているためで、もしそれが否定的に評価されるのだとしたら、その責任はアドルノにあるというより、人間の文明そのものにあると考えたほうがよい。

こういうわけで徳永は、ニーチェを参照項にしてこの四人の思想史的な意義をごく単純にスケッチするのだが、なるほどこういう読み方もあるのかと、感心させられる。

この四人のなかで徳永が最も力を入れて論じているのはベンヤミンである。ベンヤミンこそドイツ現代思想の最重要の思想家である、と考えているように伝わってくる。ベンヤミンといえば日本では、ユニークな文明評論家くらいに受け取られてきたから、徳永がこんなにもベンヤミンを高く評価するのをみると、意外な感じがしないでもない。しかも徳永はほかの学者のように、ベンヤミンをフラクフルト学派の先駆者として位置づけるにとどまらず、ドイツ現代思想の偉大な表現者として位置づけている。一段とスケールの大きな思想家として捉えているわけである。

それに比べると、ホルクハイマーとともにフランクフルト学派を主導し、ドイツ現代思想の中心と受け取られてきたアドルノについては、ややあっさりした論及にとどまっている。アドルノといえば「啓蒙の弁証法」で展開した文明批判が彼の真骨頂なのだが、徳永はそうした側面にはあまり言及せず、ハイデガーへのかかわり方に焦点を当てている。アドルノのハイデガー批判といえば、戦後に出版した「本来性という隠語」が重要な意義をもつといわれるのだが、徳永はそれにはあまりふれず、両者のキルケゴール論を比較することで、両者がニーチェ以後の神なき世界をどのように論じたかを問題にしている。

そういう点では、徳永はやや瑣末な部分に焦点を当てすぎるとの印象を与えるのだが、彼が戦後ドイツを代表する思想家にハイデガーを含めず、ウェーバーやフロイトを持ってきたところなどは、彼の問題意識の所在を感じさせて面白いところでもある。





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