知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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21世紀の資本論:トマ・ピケティの現代資本主義分析


フランスの経済学者トマ・ピケティの著作「21世紀の資本論」が世界的な反響を呼んでいるそうだ。ポール・クルーグマンなどは「ピケティは我々の経済的論議を一変させた」といって絶賛したようだが、何がそれほどのインパクトを与えるのか。筆者はこの本をまだ読んではいないが、彼自身がこの本の意義について発言しているのを朝日が紹介していたので、それを読みながら、多少のことを考えた次第だ。

彼の経済分析の目玉となるのは、資本の集積ということらしい。資本が本来集積される傾向にあり、その結果冨の偏在と格差の拡大が齎されるのは必然的な趨勢だといったのは「資本論」の著者カール・マルクスだったわけだが、ピケティはマルクスのこの仮説が、21世紀になって本格的に実証される可能性について、議論しているようだ。

ピケティによれば、ここ数十年の間に、二つの非常に大きな変化が起きているという。ひとつは上級の企業幹部の収入が急上昇している。アメリカではいま、全所得の50パーセントが上位10パーセントの人たちに渡っている。もうひとつは、更に重要なことだが、金融資産や不動産といった資本の集積が進んでいる。こうした傾向が今後も進んでいけば、社会の生み出す富が上位の僅かな人々の手に集中していくとともに、階層間の格差が拡大していき、19世紀並みの不平等な社会がもたらされるだろう、とピケティは予言するわけなのだ。

何故21世紀にこのような傾向が強まって来たのか。資本主義そのものにそのような傾向が内在しているのであれば、当然20世紀においても、資本の集積と格差の拡大が進んでいたはずではないか。だが、実際はそうではなかった。20世紀の先進資本主義社会では、所得は今より公平に分配され、その結果格差は縮小する傾向があった。

それは、資本主義にとって外在的な要因が働いたからだ、とピケティはいう。その外在的要因とは戦争である。戦争の結果富が破壊され、従来の資本家たちの多くが没落した。その結果相対的に平等な社会が実現した。しかし、こうした外在的要因の効果が働いたのは、そんなに長いことではなかった。ピケティによれば、それは1914年から1970年ごろまでの数十年間でしかなかったのであって、そうした要因の効果が薄れるや否や、資本主義は本来の傾向を取り戻した。その結果、彼が言うような事態が実現する可能性が高まったというのである。

この見方には一面の真理がある、と筆者も思う。戦争というものが、富の破壊を通じて資本家の優位を低下させる傾向があるのはたしかだろう。だが、それだけで平等への傾向が強まるというわけではない。近代の戦争はいわゆる総力戦であり、したがって国民全体による戦争への協力を前提にしている。国民全体に協力を求めるにあたっては、国民の間に戦争勝利へ向けての一体感が生まれなければならないだろう。その一体感を確保するためには、時の為政者は、国民に(徴兵などの)負担だけを押し付けるわけにはいかない。一家の働き手が兵隊にとられて戦死しても、残された家族が路頭に迷わないように社会的な保障を用意しなければならぬし、また国民の間の不平等もある程度解消する努力も見せねばならない。でなければ、到底国民の一体感など醸成できないであろう。

こういったプロセスを通じて、戦争が国民の間の平等を促進する傾向は確かにある。しかし、20世紀の資本主義社会に相対的な平等をもたらしたのは、戦争の影響だけではない、と筆者は考えている。もっと大きな要因がある。それは、20世紀において社会主義が巨大な影響を及ぼしたという事情だ。多くの国で社会主義政権ができ、また先進資本主義国家内で社会主義的発想が有力になっていく中で、資本主義と社会主義とが体制選択の問題として意識されるようになった。そこで資本主義の側では、この体制選択の戦いに勝ち抜くために、ある程度社民的な政策も受け入れざるを得なくなった。その結果、国民の間の平等が或る程度実現してきた、ということができるのではないか。そんなふうに筆者は考えている。

その社会主義が、ついに没落して、いまではほとんど影響を持てないような事態に陥った。これによって現代の資本主義には、体制選択上のライバルがいなくなってしまった。ということは、現代の資本主義が、何らの外在的な要因に心を惑わすことなく、資本主義本来の持つ傾向をそのまま発揮できるような条件が出来たということである。

しかも今やグローバライゼーションの時代である。グローバライゼーションというのは、各国の国民の文化的アイデンティティとか、民主主義的な政治とか、金儲けにとっては余計なことを、考えないで済まそうとする傾向をもっている。グローバル時代の国際資本にとっては、金を設けることだけが目的だ。それ以外の一切は、金儲けの妨げになるものとして排斥されねばならない。

こんな事情が強く働くようになったからこそ、資本主義本来の内在的傾向が縦横無尽に発揮されることとなり、ピケティがいうような事態が進んでいる、と考えた方が実態にあっているのではないか。戦争だけが平等な社会の実現に効果を果したわけではないのだ。ピケティの前提に立って、平等の実現は戦争の結果だとするのなら、もう一度平等な社会を実現するためには、大々的な戦争を行って、富を破壊しなければならない、という結論になりかねない。あるいは、そのように悲惨なことを避けるためには、不平等は避けられない、という結論にもなりかねない。




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