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精神病院の誕生:フーコー「狂気の歴史」


ピネルが1793年にビセートルの独房の中にいた狂人を拘束から開放したことによって、大いなる閉じ込めの時代は幕を閉じる、とフーコーは言う。このときに開放されたのは狂人だけではない。狂人とともに一括して非理性の範疇に分類されていたすべての反社会分子が、犯罪者や反革命分子を除いて、開放されたのであった。治安維持のための行政的措置の装置としては、一般施療院=監禁施設は歴史的役割を終えたわけである。

だが、開放されたからといって、すべての狂人たちが一般社会のなかに分散して吸収されたというわけではなかった。一部の狂人は引き続き施療院のなかに残されたのである。しかし、その名目がそれ以前とは根本的に変化した。狂人は行政的な措置の対象として「監禁」されたのではなく、治療の対象として「保護」されたのである。以後ビセートルは、それまでの「一般施療院」という名称から「狂人保護院」へと名称を変えることとなる。

狂人をめぐる「監禁」から「保護」への動きは、イギリスにおいてもほぼ平行して進んだ。イギリスでの実践を主導したのはテュークである。テュークもまた、狂人を監禁の対象としてではなく、治療の対象として、彼らの社会復帰を目指した活動をしたのである。

ピネルにせよ、テュークにせよ、彼らの実践が今日の精神医療と同じ立場に立っていると思ってはならない。ピネルらにとって、狂人はたしかに治療の対象ではあったが、その治療は今日的な意味における医学的な治癒を目的としていたわけではなかったのである。それらが目的としていたのは、狂人を社会的な常識にかなった行動ができるよう導くことであった。つまり、医学的な正常さではなく道徳的な正常さに少しでも近づくよう狂人を教導すること、それが第一の目的だった。その目的の道徳的な性質について、フーコーは次のように言う。

「ピネルにとって狂人の治療を構成するところのものは、道徳的に再認され承認された社会的な型のなかへ狂人を安定させることである」(「狂気の歴史」第三部第四章、田村俶訳)

ピネルのこうした方針は、彼が最初に開放したビセートルの狂人に対する接し方にも現れている。彼はその狂人に対して、自分の言うとおりに大人しくしていることを条件にして開放してやると持ちかけ、狂人がそれに応じたので、開放してやったのであった。果たしてその狂人はピネルの言いつけを大事に守った。ピネルはそのことを以て、この狂人の狂気の本質的な部分が解決されたと受け止めたのである。

かくて狂人のための保護施設=狂人保護院において、医師が重要な役割を果たすようになる。「かつては医師は監禁の生活に関係をもっていなかった。ところが保護院では根本的な人物となるのである」(同上)

とは言っても、医師は医学的な学問ないし治療技術の権威として狂人保護院にいたわけではない。彼に期待されていたのは、患者の医学的な意味での治療ではなく、道徳的な効果だからである。患者を世間の道徳的な枠組みに押しはめること、それが医師に期待された基本的役割だったのである。

「医学的人間が保護院で権威を持つのは、学識者としてではなく賢者としてなのである。医師の職業が保護院のなかで必要とされるのは、法律上および道徳上の保証としてであって、学問としてではない」(同上)

この狂人保護院という空間のなかで、医師と狂人とはどのような具体的な結びつきをしていたか。医師は患者に対しては、医療専門家としてではなく、道徳的権威として振舞ったであろうし、患者は医師を前にして、従順であるべき子どもとして振舞うことを求められただろう。狂人は、幼い子どもなのである。この医師と患者の関係をフーコーは、監視と裁定という言葉で語っている。親が常に子供の動向に目を光らせているように、医師は常に狂人を監視していなければならない。そしてその監視にもとづいて狂人の状態を裁定しなければならない。裁定の結果、社会の道徳的な枠に当てはまっている、あるいは当てはまりそうだと判断されれば、狂人は社会へと送り出されるだろう。だが、そのようなケースはほとんど起こらなかった。裁定はいつも、狂人たちを保護し続けるべきだとの結果を伴ったのだ。

かくして狂人は、古典主義時代のような監禁からは開放されたものの、全く自由になったわけではなかった。彼らは引き続き狂人保護院のなかにとどまり、そこで医師による監視と裁定をたえず受けなければならない立場になった。なるほどそれは、身体的な拘束やら社会からの排除は伴ってはいないが、ある種の拘束であることには間違いなかった。狂人たちは、新しい形の不自由な空間に、別の形で拘束されるようになったのである。

「人々は狂人の自由が勝手に振舞うのを許す。だがそれは、監禁の場合のつねにいささか漠然とした空間よりも、いっそう閉ざされ、いっそう厳格で、いっそう自由でない空間のなかにおいてでしかない・・・狂人はまったく自由であるが、自由からまったく排除されているのである・・・もはや狂人は古典主義時代の非理性の、分割された空間における気違いではなく、病気という近代的形態における錯乱者なのである」(同、第三部第五章)

この文章の中でフーコーは、「病気という近代的形態における錯乱者」という言葉を使っているが、おそらく筆が走ったのだろうと思う。というのも、ピネルによる狂人への新たな対応は、医療というよりも、道徳的な行為として始まったからであり、したがって狂人たちは、近代的な意味での病人とは認識されてはいなかったのである。彼らが、精神を病んだ病人として認識されるようになるためには、もう少し時間が必要だった。狂人保護院の空間のなかで、医師と狂人とが向かい合っているうちに、次第に狂人の病についての研究が進むようになる。その研究が、狂気の実態を明らかにしてくるにつれて、狂人が「病気という近代的形態における錯乱者」として定義されるようになるのである。

近代的な医学が狂人を発見したわけではなく、狂人の存在が近代的な医学の展開を促したのである。そうなって初めて、狂人保護院という名称が精神病院という名称に置き換えられたのである。




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