知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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フーコー「知の考古学」


「知の考古学」は、フーコーにとってそれなりのメルクマールとしての意義を持つはずであったと思うが、実際にはどうも座りの悪いものに終わった、というのが大方の読者の持つ印象だろう。この本は、題名から察せられるとおり、フーコーの哲学的活動の前半期を貫く系譜学的・考古学的視座の延長にあるものととることができるが、またその意味で、彼の方法論を掘り下げたものという意義を持つものととれるが、彼はここで掘り下げた方法論と、それまでの系譜学的・考古学的方法論との間に、意味のある架橋をしたようには見えないし、また、ここで展開した方法論を、その後の自分の思想を展開する際の機軸に据えることもなかった。後期のフーコーの哲学は、考古学的分析から、権力論へと大きく傾いていくのである。こんなわけでこの書物は、フーコーの業績の中では中途半端な色彩を帯びており、メルキオールの言葉を借りれば、「奇妙な作品」なのである。

この本を読んでまず奇妙に思うのは、エピステーメーの概念がほとんど使われていないということである。本の最後のほうでエピステーメーと言う言葉が出てくるには出てくるが、前半部分で展開された諸概念とのつながりが明らかでない。これを含めてフーコーがなぜエピステーメーの概念を使わなくなったのか、明確な説明がないだけに、それまでフーコーの熱心な読者であったものを混乱させるのである。

エピステーメーに代ってフーコーが使用する概念は、エノンセ(言表)、ディスクール(言説)、アルシーヴ(アーカイヴ)といったものである。フーコーはこれらの言葉を、この書物の最初から持ち出してきて、しかもそれらの言葉がエピステーメーとどのようなかかわりがあるのか明示していないので、読者は、フーコーがエピステーメーの概念を全面的に撤回して、それにかわる新しい概念セットを提出したのか、それとも、これらの新しい概念セットは、エピステーメーと断絶しているわけではなく、エピステーメーと言う概念を更に深化させるための媒介的な概念だと言えるのか、とまどうところである。

フーコー自身は、これらの新しい概念とエピステーメーの概念との関係を、断絶と連続の重なり合ったものとして考えていたようである。断絶という点では、フーコーはエピステーメーの概念に含まれる曖昧さや誤解の種となる部分を除くために、いったん思い切ってエピステーメーという言葉を放棄した、ということがあげられ、連続という点では、それにもかかわらず、たとえば歴史的アプリオリといったエピステーメーの概念の中核的部分は、新しい概念セットにも引き継がせている、ということがあげられる。つまり、フーコーは、エピステーメーという概念における中核的部分を生かしながら、その概念の誤解されやすい部分をクリアするために、新しい概念セットをもちだした、ということなのではないか。

では、エピステーメーという概念における誤解されやすい部分とはどんなものか。エピステーメー概念を単純化して言えば「歴史的アプリオリ」ということに帰着しようが、これが左右両側から批判の的になった。まず右側(主として構造主義者たち)からは、歴史的アプリオリが世界観を連想させると批判された。世界観という言葉は、いまでは何気なく響いてくるが、フーコーが生きていた時代にあっては、ヘーゲルやマルクスを連想させる言葉であった。人間の世界認識は、一定の枠組を通して行われる、その枠組を世界観と言う、その世界観は永遠普遍の真理のようなものではなく、ダイナミックに転変している、しかしてその転変は世界認識の完全性に向かって進歩している、というのが、ヘーゲル・マルクスの世界観の見方だった。つまり、目的論的に世界を認識すること、世界は一定の目的の成就に向かって進歩しているのだと考えること、それがヘーゲル・マルクスの世界観の捉え方だったわけだ。

フーコーを右側から批判する人たちは、フーコーのエピステーメーにこのヘーゲル・マルクス主義的な進歩主義的な世界観の残影を認めた。フーコーの基本的な立場は、世界認識を一方通行的な進歩の過程として捉えていると彼らは批判したわけである。これに対してフーコーは、エピステーメーは目的論的・進歩主義的な概念ではなく、ただ単に人間の世界認識を制約する歴史的なアプリオリな枠組であるに過ぎないというふうに反論した。そしてその反論を有効なものにするために、いったんエピステーメーという言葉を放棄しながら、その内実となった考え方を、エノンセ以下の新しい概念セットに盛りなおしたというわけなのであろう。

左からの(主にマルクス主義的立場からの)批判は、フーコーの歴史的アプリオリが進歩の契機を含まない静的な枠組であることを理由にして、フーコーが人間の進歩へ向かっての努力についてシニカルであるというものだった。これはサルトルがレヴィ=ストロースの構造主義を反動的な理論だと言って批判したときと同じレトリックだったわけだが、この批判については、フーコーはそもそもマルクス主義者のいうような進歩なるものは幻想に過ぎないと言って、正面から対決した。フーコーには、キャリアのスタートでマルクスに影響されたこともあり、進歩主義の影が付きまとい続けていたのだが、エピステーメーにおける世界観的な要素を排除することで、そうした進歩主義的な殻から脱却したのだと言えよう。

そこでフーコーが新たに持ち出した概念セット(エノンセ・ディスクール・アルシーヴからなる)が、どのようなものなのかが問題となる。エノンセ(言表)とかディスクール(言説)とかいった言葉が暗示するように、この概念セットが、世界観というような大げさなものではなく、とりあえずは言語表現の分野に特化した限定的なものだという推測はつく。フーコーは、このように言語表現の分野に問題を限定することで、エピステーメーという概念の持っていた世界観的な(大袈裟な)要素を排除しながら、人間の世界認識が言語を通じて行われるということを明らかにすることを通じて、これらの概念セットが、人間の世界認識のアプリオリな枠組となっていることを、あらためて明らかにしようとしたわけである。

ここで、エピステーメーを用いた世界認識の説明の仕方とエノンセ以下の新しい概念セットによる世界認識の説明の仕方を、単純化して比較すると次のようになる。エピステーメーは、ある特定の文明圏の特定の時代における歴史的アプリオリとして、その時代のすべての個別科学を制約する枠組となる。すべての個別科学は、この共通するひとつのエピステーメーによって支えられている。エピステーマーが転変すると、個別科学のあり方も抜本的に変化する。ある個別化学は、前の時代のそれと同じような性質の科学と比較対照されるべきではなく、同時代のほかの科学と比較対照されるべきである。なぜなら、異なったエピステーメー間では、比較対照の基準が存在しないのであるから、異なったエピステーメーにもとづいて成立しているもの同士を比較対照することはできないからである。ともあれ、エピステーメーと個別科学とはストレートに結びついているというのが、基本的なことだ。

これに対して、あたらしい概念セットでは、すべての科学を制約し、基礎付けるような、エピステーメーに相当する概念は当面は出てこない。出てくるのは、エノンセとディスクールの対立である。エノンセとは、個別的な言語行為のことを言う。音声による発話にせよ、文字による作文にせよ、こと知的になされるすべての言語行為をさす。ディスクールとは、その言語行為を成り立たせるための、枠組のようなものである。同じ枠組ではあっても、エピステーメーのように、すべての個別科学を貫徹して基礎付けるようなトータルな枠組ではない。生物学的ディスクールとか、心理学的ディスクールとか、個別科学のそれぞれに応じてさまざまなディスクールが成立しうる。

第三の概念であるアルシーヴとは、同時代におけるすべての言語活動を集約したものである。だからこれがエピステーメーに該当するのかと思えば、そうでもない。アルシーヴは、言葉から連想されるような、知的成果品の収蔵庫のようなものではなく、同時代のすべての言語行為を成り立たせる枠組のようなものとして設定されているが、エピステーメーのように、そのようなものとして明示されているわけではない。暗示されているだけである。

こんなわけで、フーコーがエピステーメーに代えて提出した人間の世界認識のアプリオリとしての概念セットには、エピステーメーとどのような関係にあるかについてわからない部分が多いし、それらの概念相互の関係についてもわからないところが多い。だがフーコーは、このわからなさをもたらしている糸のもつれを解こうとすることなく、新たな哲学的次元へと移行してしまう。権力論への傾斜である。




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