知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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知への意思:フーコーの「性の歴史」


「知への意思」は、今日では三巻からなる「性の歴史」の第一巻という位置づけになっているが、もともとのフーコーの構想では、五巻からなる「性の歴史」の序論として構想された。その本体とも言える五巻の構成は、「(一)肉体と身体」、「(二)少年十字軍」、「(三)女と母とヒステリー患者」、「(四)倒錯者たち」、「(五)人口と種族」となるはずであった(渡辺守章による「知への意思」訳者あとがき)。これら五巻それぞれがテーマとしたことがらは、フーコー言うところの「セクシュアリテ」が発現したものである。このセクシュアリテは、「知への意思」のなかでは、「女の身体のヒステリー化」、「子供の性の教育化」、「生殖行為の社会的管理化」、「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」という形で整理されているが、この整理の仕方は、原構想における五巻の構成にほぼ対応している。つまり、「知への意思」における「女の身体のヒステリー化」が「(三)女と母とヒステリー患者」に、「子供の性の教育化」が「(二)少年十字軍」に、「生殖行為の社会的管理化」が「(五)人口と種族」に、「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」が「(四)倒錯者たち」にそれぞれ対応し、これに性の自然的・生物学的な規定性としての「性=セックス」を、「(一)肉体と身体」という形でつけ加えることで、セクシュアリテを多面的に分析しようというのが、フーコーの当初の構想だったと考えられる(「性の歴史」のフランス語の原題は「セクシュアリテの歴史」である)。

このセクシュアリテという概念を、フーコーは多義的に用いている。そのため、日本語に訳されるときにも、「性的であること」、「性的現象」、「性的欲望」などと、文脈に応じて違う言葉をあてがわれる。しかしそうした細かい点を除いて、この言葉のニュアンスを大づかみに把握するには、これをセックスという言葉と対比させるのがわかりやすい。セックスという言葉をフーコーは、性器及びそれを使って行われる性行為という意味合いで使っている。そうした意味合いにおいて、セックスとは我々人間が動物として行う自然な営みということを連想させる。これに対してセクシュアリテのほうは、歴史的かつ文化的な背景を背負った概念というふうに位置づけている。それは人間が精神的な存在として営む高度に洗練された事柄なのだ。こう位置づけた上でフーコーは、性がセクシュアリテの基礎になっていると考えてはいけないと言う。そうではなく、セクシュアリテが基礎になって、そこからセックスが意味を帯びるのだと言うのである。「性という決定機関に性的欲望(セクシュアリテ)の歴史を照合してはいけないのだ。そうではなくて、どのようにしてこの『性』が、性的欲望(セクシュアリテ)というものに歴史的に従属しているかを明かにすることだ」(「知への意思」第五章、渡辺守章訳、以下同じ)

ここで、フーコーが何故セクシュアリテの歴史を取り上げるに至ったか、それが我々の関心を引く。「言葉と物」までのフーコーは、人間の認識を制約する枠組としてのエピステーメーの分析に力を注いでいた、「知の考古学」はエピステーメー論の延長上でそれをさらに精緻化しようとした試みだったと言える。ついで、「監獄の誕生」においては、エピステーメーが形成されるメカニズム、というかエピステーメーの基礎をなすものへと分析が及んでいった。その過程でフーコーは、エピステーメーの系譜学ともいうべきものを展開し、エピステーメーの基礎には権力があると思うようになった。エピステーメーとは、権力を担っている階級の利益になるように構成されたものなのだ、というのがその時点でのフーコーのとりあえずの結論だったように思える。

「監獄の誕生」が対象としていたのは、権力がむき出しになった世界である。その権力は、外部から人間を拘束する。いわば物理的な権力であり、その限りで暴力の一種である。なるほど監獄は、監視と処罰のほかに、規律と訓練を受刑者に課すという点で、人間の内面に働きかけるという側面は持っているが、しかしその本質は人間への外部からの働きかけ(たとえ暴力的ではあっても)である。権力は人間の身体に働きかけ、それを通じて内面である精神を管理しようとする。権力が人間との間に持つ接点は、あくまでも人間の外面としての皮膚の表面なのだ。内面ではない。

権力をこのように捉える見方は、権力を支配―被支配の関係として、つまり政治的な現象としてみなそうというものである。権力を担った階級が自分たちの利益を貫徹するために、社会の構成員すべてに一定の規則を課す。その規則の効力を担保するものとして、外的な強制が課せられる。規則を守らないものは、身体を通じて規則を守るように強制し、それでも守らないものは社会から隔離して拘束する。これが政治的な意義における権力である。だが、権力はそうした範囲にはとどまらない、というのがフーコーのたどりついた結論だった。権力というのは、政治的な現象であるにとどまらず、もっと裾野の広い現象だ。権力は、人間同士がかかわりを持つあらゆる場面に現象する。いいかえれば、人間とは権力現象を通じてつながりあった生き物なのである。

人間同士のつながりの中で最も根源的で、したがってもっとも重要な意義を持つのはセクシュアリテである。そのセクシュアリテのさまざまな局面の中で、権力が姿をあらわす。それを分析すれば、セクシュアリテ・権力・知(エピステーメーに相当する)の絡み合いが浮かび上がってくるだろう。そこから我々の時代のエピステーメーを、なにが根本で規定しているか、それが見えてくるだろう。

これが、「性の歴史」を構想した当初にフーコーの抱いていた問題意識だったように思える。フーコーはセクシュアリテを通じて、西欧近代のエピステーメーとそれを規定している権力をあからさまに展開してみせようと考えたのだろう。

それにしても、女のヒステリーといい、子供のオナニーといい、大人の性的倒錯といい、フーコーがセクシュアリテの例として持ち出すのは、みな性にとって周縁的な事柄と言えなくもない。周縁との対比において中心を明らかにすると言うのは、構造主義派の文化人類学者によく見られる手法で、日本の山口昌男などは、この手法を縦横に駆使して文化を論じていた。フーコーもまた、そのひそみに倣ったのであろうか。しかし、フーコーは、近代社会におけるセクシュアリテの問題を、その後「性の歴史」のプログラムから排除してしまったので、結局、彼がなぜこうした問題群を、セクシュアリテ論の前面に持ち出してきたのか、曖昧になってしまった。




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