知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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若者愛と真理の追究:フーコー「快楽の活用」


「ギリシャ人は、自分と同じ性のものへの愛と別の性のものへの愛とを、二つの排他的な選択、根本的に異なる二つの行動類型というふうには対立させていなかった」(「快楽の活用」第四章、田村俶訳)。フーコーはこのように言って、ギリシャ人の間では同性愛、それも特に成人した男と若者との間の同性愛、つまり若者愛が普及していたとする。ギリシャ人の若者愛は、プラトンのテクストなどを通じて、我々にもなじみの深いものであり、恋愛の一つの類型として十分にありうることと考えられてきたが、フーコーはこの問題を、単に一つの趣味をめぐる議論、すなわちどうでもよいようなこととしてではなく、ギリシャ人の<性>にとって根本的な要素をなすものだと考えるのである。

何が若者愛を必然のものとさせるのか。それは美しいものに対する人間の欲望だという。ギリシャ人の見解では、「男なり女なりにたいして欲望をいだかさせるにいたるもの、ただ一様にそれは、性差はなんであれ、<美しい>者にたいする、自然本性によって人間の心のなかに植えつけられた欲」なのである(同上)。この同性愛からもたらされる快楽は、当時のギリシャに「普及していた実践であって、法律によって全然非難されていず、その魅力が一般に認められていた」のである。

だが、この男同士の同性愛は、複雑な道徳上の問題構成をもちださないわけではなかった。というのも、性行為というものは必然的に支配・服従の契機を含んでいるものであるが、この契機が同性愛の一方の当事者である若者に、難しい問題を投げかけるからである。男と女の間の性行為においては、支配・服従という関係は問題にならない。なぜなら女は本来男に支配されるように出来ているからである。ところが若者の場合には、そうは言えない。若者といえども、自由な男性として自己統制をすることが求められている。彼は自分自身の支配者でなければならない。他人に支配されるものであってはならないのである。

若者にとっては、同性愛のどこが不名誉な要素を含んでいるのだろうか。若者にとって、恋する男たちから愛を求められること自体は、不名誉なことではなかった。不名誉なのは、相手に対して受動的な立場に陥ることである。ところが性行為というものは、能動的になるものと受動的になるものとを前提としている。能動的なものは挿入するほうのものであり、受動的なものは挿入されるほうのものである。その過程で、能動的なものは、受動的なものを支配し、自分の言いなりにし、快楽を享受する。この非対照的な関係において、受動的な立場に甘んじることは、自由な男性としての資格を放棄することに等しい。

したがって、「若者たるものは<受動的に>ふるまってはならず、なされるまま、言われるままでいてはならず、戦わずして屈してはならず、先方の男の逸楽を黙認する相手をつとめてはならず、その男の気ままを満足させてはならず、自分の体を、それを欲しいと思う誰にでも、しかも望みのやり方で、柔弱さのせいで、あるいは逸楽趣味や私利私欲から、先方に差し出してはならない」(同上)のである。しかしこの要請は、若者愛の実践とは矛盾せざるをえない。この矛盾をどのようにして乗り越え、若者愛を堂々と享受することができるようにするか、それがギリシャ人にとっては、深刻でかつ重大な問題となったのである。

この場合、問題はもっぱら若者のほうをめぐって展開される。「若者を相手に悦楽を感じて快楽の主体であることは、ギリシャ人にとって何も問題にならない」からだ。だが、「快楽の客体であること、しかも自分をそうだと認めることは、若者にとって重大な困難を構成するのである。自由民の大人、自分自身を統制し、他の人々をしのぐ能力をもつ大人となるために、若者が自分自身にたいして確立すべき関係は、自分が他者にとって快楽の客体である関係形式と合致しえないだろう。この不合致は道徳的に必然のものである」(同上)

ここから、若者愛の実践において、どうしたら若者が上述のような二律背反を克服して、自分自身も主体的に愛を享受できるか、その条件を探ろうとする真剣な努力が、多くのギリシャ人の思想家によって展開された。その努力のうちで、フーコーが一例として紹介しているのが、アリストパネスによって提出されたあの名高い比喩である。プラトンが書きとめた<饗宴>の場面の中で、アリストパネスは人類の起源について語ったのであるが、それというのは、もともと人類は二つの身体が合わさって出来ていた。その二つの身体の組み合わせは、男同士、女同士、男女ひとつづつ、というものであった。それが分割されていまのような形になったのであるが、そうなると、それぞれの半身は、失われた自分の分身を求めるようになる。それが恋の起源なのである。そこで男同士の組み合わせから生まれたものは、自分の半身であった男を恋い求めるようになった、というのがアリストパネスの説なのであるが、これを引用することで、男同士の同性愛における支配・服従の契機を軽視し、男同士が惹きつけあう必然性と、その試みにおける二人の男の平等性を強調しようというわけなのであろう。

この試みはあまり成功したとは言えず、またフーコーが紹介している他の多くの試みも成功しているとは言いがたいが、その中で、最も注意を引くのはプラトンの見解である。プラトンは、個々の存在者からすべての存在者の根拠としてのイデアを導き出した哲人として知られているが、そのイデア論を<恋>についても適用している。その議論によれば、恋にあって重要なのは、個々の恋ではなく恋そのもの、イデアとしての恋であり、現象としての恋ではなく本質としての、つまり真理としての恋である。それ故、恋についての問いかけは、<恋とは何か>という存在論的な形式をとる。いまや、問題は若者の名誉といった瑣末な事柄から、<真理の恋>へと移行するのである。「人が恋について語ろうと企てるや、恋の客体の問題は、異なった言葉で設定されるだろう」(同上、第五章)

イデアとしての、つまり真理としての恋にとって、恋の当事者たちは、真理を追い求めるという点で平等である。何故なら真理としての恋は、二人にとっては同じものだからである。二人のどちらにとっても、「恋は二人を真なるものに運ぶ動きなのである」。

恋における真理の強調は、恋における身体的な要素をしのいで、あたかもそうした身体的な要素は余計なものであるとするような態度を生むようになるだろう。事実プラトンの議論は、恋は魂の事柄であって、身体の事柄ではないという方向に傾いている。主体・客体ということに関していえば、恋する男は、真理を体得した者として、「真理を渇望するすべての青年にとって恋の客体となる」であろう。こうして、恋について主体と客体との議論に拘り、若者が恋する男の客体であるからと言って、彼が不名誉を免れないというふうな議論は、ナンセンスであるということになるわけである。

こうした議論は、あるいはただの言葉遊びのようにも聞こえるだろう。それでも、プラトンのような偉大な哲人が言葉遊びをしてまでもこの問題に拘るということは、ギリシャ人にとって若者愛がいかに重視されていたか、ということを逆説的に物語っているように見える。プラトンの議論は煎じつめれば、若者愛を肯定することにあったと思われるからだ。実際、プラトン自身が若者愛の実践者であったことは広く知られている。

また、フーコーにとっても、男同士の同性愛は、どうでもよいことではなく、ましてや禁止や抑圧の対象とすべきものではなかったのだと思う。プラトンが紀元前四世紀のギリシャにおいて男同士の同性愛を擁護したように、フーコーはこの本を通じて、20世紀の地球上で、男同士の同性愛の権利を確立したいと考えたのだろう。




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