知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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欲望する心と体:フーコー「自己への配慮」


フーコーが「自己への配慮」のなかで取り上げる紀元一世紀および二世紀のギリシャ・ローマ世界あるいはローマ帝政期の時代は、古典古代ギリシャの時代とキリスト教の支配的となった時代とを結ぶ過渡的な時代である。あらゆる過渡的な時代がそうであるように、この時代も、前後の時代との連続性と断続性を指摘することができる。「性」の問題に関していえば、古典古代ギリシャに特徴的だった性についての人々の態度の余韻が見られると共に、今までには見られなかった特徴も現れてくる。その新たな特徴は、キリスト教道徳を先取りしたようにも見えるのであるが、必ずしもキリスト教道徳と一致するわけでもない。そこにも連続性とならんで断続性が見られるのである。

この、紀元一世紀および二世紀におけるギリシャ・ローマ世界の「性」について、フーコーは次のように指摘する。「快楽に対する警戒、快楽の濫用が心身に及ぼす影響の強調、結婚ならびに婚姻の義務への価値付与、若者愛への精神的意味づけにたいする興味の喪失、つまり紀元一世紀と二世紀の哲学者および医師の思索のなかには、ある種の厳格な態度が完全に存在している」(「自己への配慮」第二章、田村俶訳)。ここでフーコーが言っていることの要点は、性について快楽の占める位置が高まるのと平行して、男女の性的関係のあり方としての結婚への価値付与が進む一方、男同士の性的関係としての若者愛の価値剥奪が進んだということのようである。

快楽への警戒は以前にもなかったわけではない。これより以前の、自己との関係を重視する時代の「養生術」にあっても、快楽は自己との関係における問題として、自己統制の対象として考えられてはいた。しかし自己統制という点では、快楽は食事や排泄行為と並んだ、さまざまな事柄の一つに過ぎなかった。だがこの時代(ローマ帝政期)になると、快楽は特別な地位を占めるようになる。それは自己統制の対象となる諸々の事柄の一つではなく、自己統制の対象のうちでもっとも重視される事柄となるのだ。この時代の自己統制のあり方をフーコーは「自己の陶冶」という概念で説明しているが、快楽への警戒というかたちをとった快楽の統制は、自己の陶冶にとって鍵となる問題に発展するのである。「以前にもまして強調されているのは<快楽の問題>であり、より正確に言うと、性的快楽を前にしての不安、その快楽とのあいだに結びうる関係、その快楽をどうすべきかという活用法である」(同上、第四章)。すなわち、「愛欲の営みにかんする、いっそう強烈な問題構成」が前面に出てくるというわけである。

この「いっそう強烈な問題構成」の中心となるのは「性行為」である。「性行為」は、古典古代ギリシャにあっては、人間同士のあいだの支配・被支配関係のひとつの局面として理解されることが多かった。古典古代ギリシャの時代にあっては、性行為とは基本的には誰が誰にたいして挿入するかということであり、そこからして挿入するものと挿入を許すものとのあいだのさまざまな問題が構成されたのであったが、帝政ローマ時代になると、性行為は支配・被支配の関係というよりも、快楽の問題として捉えられるようになった。快楽にはさまざまな源泉と強度があるが、性行為に由来する快楽こそは、快楽の中の快楽といってよいほど、強烈なインパクトを人間にもたらす。また、人は性行為に由来する快楽によって、癲癇患者の痙攣に似たものを体験することもある。それゆえ性行為に由来する快楽には、積極的と消極的の両面の価値がある。この両面性をよくわきまえながら、快楽をよき生活に従属させる養生法が必要となる。

この養生法のひとつの例としてフーコーは、ガレノスの医学的な見解を紹介している。それによれば、性行為は、生殖に必要な時期、当事者の年齢、季節や一日のうちの時機、個人の体質を考慮して行う必要がある。

生殖に必要な時期を選ぶ必要性は、あまり言う必要がなかろう。何故なら性行為のもっとも大きな意義は子孫を得るということにあるからである。したがって、「子供を作りたいと思う者は心身を可能な限り最良の状態にしていなければならない」。性交には入念な準備が必要なのである。その時機としてフーコーは、月経期の直後としたソラヌスの見解を紹介している。月経期以前でもなければ、月経の最中でもなく、月経期の直後としたのは、この時期が女性の子宮がもっとも落ち着いており、立派な子供を作るのに相応しい状態にあるからだ。

当事者の年齢。「老年になってから性的関係をもつことは危険である。性的関係は、奪い取られてしまった成分を取り戻す力のない身体をへとへとにするからである。ところがまた、あまりにも若い者についても、性的関係は有害である。それは成長を阻害して、青年期の目印~体内における精液の成分の成長の結果である目印~の成長を妨げる」(同上)からである。

性交に相応しい季節は冬と春であり、一日のうちでは夜がいい。また、性交に適した体質というものがあるのであり、それは「多少とも熱く湿っぽい」体質である。「愛欲の営みにおいて必要である熱い湿っぽさを保持するか取り戻すためには、適当な運動と適度の食事にかんする、複雑で同時に継続的なある養生法全体にしたがわなければならない」(同上)のである。

性行為をめぐる以上の要素はいずれも身体的なものである。「身体の状態、身体の均衡、身体の疾患、身体の一般的もしくは一時的な傾向、これらが人々の行動を規定するはずの、いわば主要な変数として現れている。言ってみれば身体こそが身体にたいして掟となっている」(同上)。

ところが心のほうも役割を果たしているのである、とフーコーは強調する。なぜなら、「心こそが身体を、それ固有の仕組やその基本的欲求を越えて引きずっていく恐れがたえずあるからであり、心こそが人に、適切でない時機を選ばせたり、どうかと思われる状況のなかでふるまわせたり、自然な体質をはばませたり、するように仕向けるからである」(同上)。それゆえ、「性」を適切にコントロールするためには、身体以上に心の役割が大きいといえる。というより、心が身体を統制することで、適切な「性」の実践が初めて可能となるのだ。

心が果たすべき役割は、三つの領域にわたるとフーコーは言う。欲望の動き、心像の存在、快楽への執着、の三つである。

まず欲望の動き。欲望そのものを排除することは論外である。なぜなら性的な欲望は、動物の雌雄を互いに牽引させるために自然が置いたものだからである。大事なことは、心のなかに生じる欲望を体の必要に合せることである。「心の欲望によってと同時に体の必要によって駆り立てられる場合に、性交にふけるのが最良」なのである。すなわち、「心を抑制すること、そして心を体に従わせること」が肝心である。「したがって」とフーコーは言う、「医学的養生法が提案するのは欲望の一種の動物化である。この語の意味は、心の欲望を体の欲求へできるだけ従属させることであり、(精液の)排出にかんする一つの自然学をもとに作られる、欲望の倫理学であると理解することが必要である」。

心像の存在は、欲望を不要に掻き立てるという文脈のもとで問題となる。人間というものはある種の心像によって性的欲望を必要以上に掻き立てられるようできているものなのだ。だから、「正しい性行動の条件ならびに保証としての、内なる心像あるいは外なる心像にたいする戦い」が重要となるのである。

性行為につきものの快楽については、欲望と同じく、排除することは論外であるが、それが過度にならないようにすることは可能である。「追い求める目的としての快楽の度外視である、つまり、快楽の魅惑とは無関係に、しかも快楽が存在しないかのように、愛欲の営みに赴くわけである。理性が自らに与えるべき唯一の目的とは、身体の状態が自ら欲する排出の必要上、支持する目的である」(同上)。

この文脈のうえで、ディオゲネスのあの有名なマスターベーションの行為に新しい意味づけが与えられる。「この哲学者は、来るように求めておいた娼婦を待ちもしないで、もてあました体液(精液)を自分自身で放出したのである。そうしつつも、ガレノスによると、この哲学者は自分の精液を出したいと思ったものの、"この排出にともなう快楽を求めたわけではない"」というわけである。

古典古代のギリシャにあっては、手淫は精液の無駄な放出という観点から消極的に評価されていた。一方、キリスト教の時代になると、手淫は「想像力がもたらす妄想と危険に結び付けられているのであり、それは人類が自分たちに定められてきた限界を乗り越えるために考案した、自然の摂理を外れた快楽の形式そのもの」と考えられるようになる。ところが、この二つの時代にはさまれた帝政ローマ時代にあっては、手淫はある種の価値付与の対象となっているのである。




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