知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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結婚生活への価値付与:フーコー「自己への配慮」


「性」の歴史において、紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界の最大の特徴は、夫婦の結婚生活に多大な価値が付与されるようになったことだ。古代古典ギリシャにおいて結婚は、子孫を得ること及び家庭管理の対象として位置づけられていたのだったが、いまや市民として生きていくうえでの最大限に重要な要素に高まるのだ。それに伴って、結婚をめぐる言説も様変わりする。人々はそこに、夫婦生活のユニークな様式論の展開をみるだろう。それは主に三つの領域をめぐって展開される。すなわち、夫婦の絆にかんする術、性的独占の教説、快楽の共有にかんする美学である。フーコーはこう言って、ストア派やエピクロス派などのさまざまなテクストを手がかりに、この時代に生じた結婚生活への価値付与の内実について分析するのである。

夫婦の絆は、結婚生活の核心として観念される。というのも結婚は、家庭経営の様式としてのみではなく、「男と女の個人的関係」として考えられているのである。この「個人的な関係」において、「夫婦のどちらもが自分の生活をふたりの生活として送り、ふたりが一緒に共通の生き方を形作る、そうした行為の様式を結婚は求めるのである」(「自己への配慮」第五章、田村俶訳)。

夫婦の絆が重視されることとパラレルに、性交渉の「夫婦本位化」というべき事態が進行する。夫婦の絆の性質からして、夫婦以外の性的快楽は排除されるべきである。それは嫡出子の誕生という目的のためというより、夫婦の絆から帰結する当然のことなのだ。「結婚は人間存在にとって、性的結合の、そして愛欲の営みの活用の、唯一の正当な枠組を構成する」のである。

性的快楽が結婚生活のなかに閉じ込められた結果、姦通が価値剥奪の対象となり、ひいては罪とされるようになる。姦通の罪悪性について深い思索を展開したものとしてフーコーはエピクテトスをあげているが、そのエピクテトスの考えでは、「姦通が一つの罪として構成されるのは、人間同士の関係のこの網目、そこでは各人が単に他の人々を尊敬せよと求められるだけではなく自分自身を認識すべしと求められるこの網目に姦通が裂け目をもたらすからである」。こういうとかなり抽象的に聞こえるので、エピクテトスは次のようにわかりやすく言い替えている。「自分自身は他人の妻を誘惑しているのに、自分の妻には貞節を要求する男は不誠実であるのを君は知っている。そして妻には恋人をもつなと禁じるように、君も愛人をもつことはやはり禁じられていることを知っている」(同上)

姦通は倫理的な根拠から非難されるばかりではない、それは夫婦の絆の相方であるかけがいのない妻を深く傷つけもする。「ある香料の香りのせいで狂ったようになる猫に何が起るかを、プルタルコスは思い出させる。同じように、夫が他の女と関係を持つと妻は狂ったようになり、したがって『取るに足りない』快楽のために、妻にかくも激しい悲しみを与えることは不当である」(同上)

性的快楽は、それが結婚生活のなかで享受される限り大目に見られるが、しかし度を過ぎた快楽の追求は非難の対象となる。「愛欲が人々に与えられたのは、彼らが悦楽を楽しむためではなく人類の繁殖のためである」ことを十分に念頭において快楽を楽しむべきなのである。それゆえ妻との性的な接触は、節度をわきまえたものでなければならず、仮にも淫乱にわたってはならない。妻に対して淫乱にふるまうと、妻のほうもそれに馴れて淫乱になるものである。すると夫にも不都合なことが起る。「妻に過度に激しい快楽を教え込むと、妻が悪用して、こちらは教えてしまったことを後悔するはめになる」に違いないというわけである。

性交渉には性的快楽のほかにさまざまな効用がある。それらの効用のなかで最も意義の深いものは夫婦の絆を強化する働きをするものである。「アフロディテの仕事は単なる肉体の交渉や結合に存してはいない。その仕事は、{肉体の交わりによって生じる}相互の愛情とか憧れとか結びつきとか交流とかに存するのである。夫婦生活において性交渉は、均衡のとれた可逆的な情愛関係の形成と発展のための、いわば道具として用いられなければならない。すなわち、プルタルコスが言うには、『アフロディテは、男と女のあいだの和合と情愛を創造する職人である。というのは男女の肉体を介して、そして快楽の効果をとおしてアフロディテは、同時に男女の心を融和させるのだから』」

それ故夫婦生活のさまざまな局面で、性交渉がもたらすこうした効果を最大限に活用すべきなのだ。たとえば夫婦喧嘩の仲直りについて。「寝床を共にする習慣を作っている場合には、喧嘩をしたからといって部屋を別々にすべからず。喧嘩をした時こそ、反対に、『この種の難儀を治す最良の医師』アフロディテのご加護を祈るチャンスが到来しているのだ」

以上三つの局面をめぐる言説、すなわち、夫婦の絆にかんする言説、性的独占の教説、快楽の共有にかんする美学が、紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ人たちの性的実践をめぐる議論を顕著に特徴づけているものである。

これらの言説から、性をめぐる二つの動きが目立って現れてくる。ひとつは、人々が性愛にかんしてますます大胆に語るようになる傾向であり、もうひとつは、性愛が男女の結婚生活と深く結びつくことと平行して、男同士の同性愛が価値を剥奪されてゆくことである。

このようにフーコーが言うとき、その口調のなかにはある種の苦さが込められている。古代古典ギリシャ時代には、大いなる価値付与の対象であった若者愛、つまり男同士の同性愛が、わずかの時間をおいて紀元後の最初の世紀になると、価値剥奪の対象とされるようになるのであり、さらにわずかの時間を経過してキリスト教が支配的な時代になると、同性愛は価値剥奪の対象であるにとどとまらず、もっと進んで処罰の対象となってゆくのだ。すなわちそれは人間の自然に反した倒錯的な行為であると断定されるに至るのである。これはほかならぬ同性愛者であるフーコーにとっては、歴史のなかの痛恨事として映ったに違いないのだ。


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