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狂気をして狂気を語らしめる:デリダのフーコー論


フーコーが「狂気の歴史」において企てたことは、狂気について、狂気そのものを語るということだった、とデリダは解釈する。しかしそんなことはできない相談だとデリダは言う。「<狂気そのものを語る>という表現は、それ自体が矛盾しています。客観性のなかへ追放してしまわずに狂気を語るということは、狂気をしてみずからおのれを語らせるということです。ところが狂気というものは、本質的に語られないものなのです」(野村英夫訳、以下同じ)

つまり、狂気について語られる際には、つねに狂気ではなく理性が語っているのだというのである。狂気というものは、人間の知的活動のなかから、理性に馴染まない部分として分節化され、理性に対立するものとしての性格を持たされたものである。ところで人間の知的な活動は理性が担うのであるから、非理性としての狂気は、知的活動の主体ではありえない、それはあくまでも理性による知的な営みの対象であるにすぎない。したがって人が狂気について語るときには、理性が語る対象として貶められるわけである。上の引用文のなかで、「狂気というものは本質的に語られない」とあるが、もっと正確にいえば、語りの主体となることはあり得ないということである。

ところが、フーコーが「狂気の歴史」において企てたことは、狂気をして狂気を語らせるという、それこそ気狂いじみたことだった。フーコーは何故そんなことが可能だと思ったのだろうか。これにはいくつかの解釈がありうる。

ひとつは、フーコーが狂気についてのメタレベルの立場に立って、狂気を語っていると解釈することである。歴史的な現象としての狂気は、たしかに理性との二項対立関係にあるものとして、非理性として位置付けられ、そうしたものとして知的活動からは締め出されるわけであるが、したがってその限りでは、知的活動の主体にはなりえないわけであるが、翻って狂気を、それが理性から分節化される以前にたち戻って、そこから狂気を眺めなおしたとしたら、どうなるか。つまり理性と狂気が分裂する以前の知性の状況にたちもどり、そこから狂気を眺めなおす、そうすれば、理性による偏った見方とはまた違った狂気についての姿が見えてくるのではないか。フーコーはそのような立場から、狂気の歴史を眺めなおそうとしたのではないか、そう捉える見方がひとつありうる。

この、理性と狂気への分裂以前の知性の在り方についてフーコーは、<未分のロゴス>と言っている。それは「理性と狂気がまだ分かれていない」瞬間をさしている。そういうもの<未分のロゴス>をギリシャ人はもっていた。古典的(近代的)理性とは異なって「ギリシャ的ロゴスには反対というものがなかった。つまり一言でいえば、ギリシャ人たちは、基本的な、根源的な、未分の<ロゴス>の側にじかに立っていたのであり、一般的にあらゆる矛盾、あらゆる闘い、ここではあらゆる論争というものはそのロゴスのなかに、あとになってからはじめて、あらわれて来たのだ、というふうに考えねばならなくなるだろう」。そう考えられた未分のロゴスが、フーコーにとっての、メタ知性ということになる。そのメタ知性から狂気を眺めれば、理性とはまた違った眺めが得られるだろう。なぜならそこからは、理性によって排除された後の中身のないうつろな狂気ではなく、理性と未分化な状態の、いきいきとした狂気の姿が浮かび上がってくるだろうから。そうした狂気像に立ってこそ、近代以降における疎外された狂気の真の姿が見えてくるのではないか、どうもフーコーはそう考えていたフシがある。

もうひとつは、狂気を理性と対立させ、排除してすませるのではなく、狂気を理性が成り立つための不可欠の契機として捉えなおすことである。女のいない男が、事実的にも理念的にもありえないように、狂気を内在せしめていない理性もありえない。つまり狂気と理性とは互いに不可欠なものとして結びついたもので、どちらか一方が欠けてももう一方が成り立たない関係にある、そのようなものとして狂気を捉えることで、理性を、というよりは人間の知性を、活性化できるのではないか。そうフーコーは考えたのではないか。

そう考えれば、狂気は理性の不可欠の同伴者として、排除されるべきものではなく、包摂されるべきものだということになる。狂気が知性によって包摂され、理性の同伴者となることで、たえず理性を活性化するというのは、次のようなことを意味している。理性にはつねに、「意味の道と無意味の道、存在の道と非存在の道への分割という意味においての決断」をする傾向があるが、その決断によって、理性はおのれの起源と可能性を忘れてしまう。忘れてしまうことで、理性は硬直化するが、それをフーコーは理性の危機と呼ぶ。その危機に気づかせてくれるのは狂気しかない。ひとは狂気の発作を通じて、ロゴスの根源的なあり方に舞い戻り、自分自身の可能性に気づくことができる。

デリダは言う、「ミシェル・フーコーがわれわれに教えてくれるのは、人々が狂気の発作と称するものと奇妙に共犯的な、理性の発作が存在するということ」なのである、と。理性が発作を起こさなくなったら、いずれ眠りこむしかないであろう。そしてその発作を起こさせるのは、狂気なのだというわけである。

以上、デリダのフーコー論を見てきたが、それにはかなり牽強付会というべき面もある。フーコー自身が企てたのはあくまでも近代以降の社会で狂気がいかにして排除され、監禁され、閉じ込められるに至ったかについての、歴史的な省察だったのであるが、デリダはそれを越えて、狂気が人間の新しい在り方にとってクリティカルな役割を果たせる可能性について、フーコーを援用しながら自説を展開しているところがある。そのへんをわきまえないと、フーコーを読み違えることにもなるし、なぜデリダが狂気の果たす役割にフーコー以上にこだわるのか、理解できないことともなる。この論文でデリダが企てているのは、理性と狂気の対立を相対化させるということだが、それは、やがて実を結ぶこととなるデリダの脱構築の考え方の一つの先駆的な実践だったとも言えるようである。





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