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暴力と形而上学:デリダのレヴィナス論


「哲学は昨日死んだのだ。ヘーゲルとかマルクス、あるいはニーチェとかハイデガー以来息絶えているのだ・・・哲学はある日、歴史のなかで絶命したのだ」(「暴力と形而上学」川久保照興訳)。「エクルチュールと差異」の第四論文「暴力と形而上学」はこんなショッキングな文章で始まる。レヴィナスを論じたこの論文でデリダが試みたのはだが、哲学の死をあらためて確認することではなく、死せる哲学の遺体から新しい命が芽生えていることに注意を促すことだったように思われる。その芽生えをデリダはレヴィナスに見ているようなのである。

この文章の前半でデリダは、西洋哲学の歴史においてレヴィナスが占める位置を確認し、したがってレヴィナスが持つ哲学再生に向けての可能性のようなものを論じ、後半では、にもかかわらずレヴィナスの思想にも一定の限界があることを指摘しようとしているように見える。前半の意図はかなり成功していると思えるが、後半の意図についてはかならずしもそういう印象が伝わってこない。デリダの議論は例によって文学的な修辞に満ちているので、その真意を確定するのがむつかしいのであるが、それはこの論文の対象であるレヴィナス自身の文章が韜晦を極めていることによるのだろう。そんなこともあって、レヴィナスの限界を指摘するデリダの文章にも韜晦なところがある。

この論文でデリダが主張していることを簡単に言えば、西洋哲学の歴史のなかでレヴィナスがはじめて他者の問題に正面から向き合ったということである。レヴィナス以前の西洋哲学は、この論文ではフッサールとハイデガーによって代表されているが、そのどちらも他者の問題を捉え損なっている。フッサールにおいては他者とは自我の延長としての他我のことであるが、そんなものはレヴィナスに言わせれば本当の意味の他者ではない。一方ハイデガーのほうも共同現存在という表現で他者の問題をとりあげているが、これも本当の意味の他者とは似てもつかない代物である。要するにこの二人に代表される西洋哲学は、その歴史全体を通じて他者の問題を正当に取り上げることがなかった、というのがレヴィナスの主張であって、デリダもその主張の画期的なことを認めているわけである。デリダが「哲学は死んだ」といった言葉で言っている事態は、他者の問題に向き合えない哲学は、いまや存在している意味が無くなったということなのである。

フッサールの議論は、およそ西洋哲学が他者を論じる場合にとる典型的な形を示している。それは自我をすべての根拠として、そこから世界を説明する。他者も例外ではない。他者とは自我の鏡に映った他人の陰のようなもので、あくまでも私の自我の付属物でしかない。私が存在しなければ他者も存在し得ない。他者は私というフィルターをとおして意味づけをされる。他者は私によって強制的に意味づけされてはじめて存在の根拠をもつのであるから、これを一種の暴力だと言うことができる。つまり他者は私とはまったく別の存在として私とは無関係にまた平和に存在できるものではなく、私によって強制的に意味づけされて始めて存在意義を持つことのできるものなわけだ。その意味づけの作用のことをデリダは暴力と言うのである。フッサールの現象学も、ハイデガーの存在論も、「他人をその存在と意味とにおいて顧慮することができないので、暴力の哲学と言えよう」とデリダは総括するのだ。

これに対してレヴィナスの考え方は、「他人を軽視し無視することの彼方に、いいかえれば他人を評価或いは把握し、理解し認識することの彼方に赴くこの積極的な営み」を重視する。レヴィナスはそれを形而上学という言葉で呼ぶのだ。したがってレヴィナスの形而上学概念は西洋哲学の常識とは全く異なっている。それは他人をそのあるがままに受け入れることを目指す学なのだ。この論文の表題「暴力と形而上学」は、以上述べたことがらを内在させているわけである。

レヴィナスの言う他人には、私とは全く異なった存在としての別の人間の外に神も含まれているようだ。神の問題については、この論文では踏み込んだ議論をしていないが、レヴィナスの思想が究極的には神に向き合うことを目的としたものであることからすれば、当然つねに考慮されていなければならないわけである。レヴィナスの他者論はいずれ神への賛嘆の辞に集約されていくはずだ。

さてレヴィナスによれば、「存在論は存在の一元性のために、つねに他人を自同者の中心に連れ戻す」。この自同者とは、あらゆる存在の根拠としての自我のことを言う。この自我を根拠としてあらゆる存在者が理解され認識される。他者もまた同様である。他者もこの自同者との関わり合いにおいて、他我として構成される。ところでこの自同者は有限な全体性を本質としている。つまり閉じた全体的な存在者というわけである。あらゆる存在はこの閉じた全体性としての自同者の中心に連れ戻されることによって存在として構成される。ところが本物の他者はこの有限の全体性からはみ出すものなのだ。それは私の存在とは無関係に存在する。私の存在の核心である自同者とは本来かかわりなく存在するものである。この仕組みをレヴィナスは、他者は無限であると表現している。有限な全体とは全く反した存在だから無限と言えるというのだ。レヴィナスの主著の表題「全体性と無限」はこうした事情をあらわしている。つまりその本は、全体性としての自分と無限である他者との関わりについて語ったものなのだ。

先に、レヴィナスの哲学は形而上学を目指していると言った。レヴィナスの言う形而上学とは、他人の倫理的な性格をもっぱら論題とするものだ。倫理的なというわけは、他人を認識の対象として捉えるのではなく、私との間で人間同士のかかわりあいを演じるパートナーとして見るからだ。単に認識としての対象なら、そこに倫理的な問題の生じる余地はない。ところが私にとってのかけがいのない存在であって、私の運命がそこにかかっているようなものなら、それは倫理的な色彩を帯びる。他人は私にとって倫理的な存在なのだ。本物の他人をテーマとするレヴィナスの思想はだから倫理的な思想だと言ってよい。あるいは倫理学と言い換えてもよい。

以上が、レヴィナスが西洋哲学の歴史のうえで持つ意義についてデリダの述べたことの要旨である。この論文の二つ目のテーマであるレヴィナスへの批判については、また別の機会に触れたいと思う。





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