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言葉にのって:デリダへのインタビュー


「言葉にのって」は、1999年に行われたデリダへのインタビューである。デリダは、たとえば「ポジション」のように、インタビューの中でも難解な表現をするので、気が抜けないのであるが、このインタビューは、例外的といってよいほどわかりやすい。つまり読んだ先から字面に書いてあることが理解できる。その理由は、テーマがデリダ自身の自己形成史とか彼が携わった社会運動に関することが中心で、デリダの思想を彩るさまざまなキーワードが全く問題とされていないからだ。

デリダの思想形成という点では、彼自身が最も影響を受けた思想家としてあげているのは、この本のなかでは、ハイデガーとレヴィナスのようだ。どちらもユダヤ人を強く意識させる思想家である。レヴィナスはユダヤ人の当事者として、ハイデガーはユダヤ人の迫害者として。デリダがユダヤ人性にこだわるのは、彼自身がユダヤ人として、自分自身のユダヤ人性を強く意識しながら生きたせいだろう。

六本からなるインタビューはそれぞれ異なったテーマを巡って交わされている。一本目の「肉声で」は、デリダ自身の自己形成について、二本目の「歓待について」はレヴィナス論である。デリダはレヴィナスを「きわめて偉大な他者」の思想を語った思想家だとしている。「歓待」とは、その他者に向う基本的な姿勢ということなのだろう。レヴィナスは、絶対的な他者としての神の前では、人間は個人として立ち向かうべきだとし、同胞愛とか共同体を過度に介入させるべきではないとしたが、それについてはデリダも基本的に同意見のようである。

「現象学について」は、特にフッサールの現象学について、デリダが学問的な方法論の基本のようなものを学んだと言っている。ハイデガーもやはり、自分も現象学を学の基本的な方法とすべきだというようなことをいっているが、ハイデガーの言うところの現象学は、フッサールの考えていたものとはかなり違うということがだんだんとわかってきている。デリダの現象学理解は、どうもハイデガーの強い影響のもとで行われたようなので、彼が言っていることに果たしていかほどの誠実さがこもっているのか、気をつけたほうがよい。

「政治における虚言」については、文字どおり政治家たちの発する虚言の意味についてのやりとりである。政治家の虚言と言えば、今の日本では牛に角がつきもののように、政治家に虚言はつきものだと割り切って捉えられているが、それがいかに深刻な精神の腐敗なのかについて、このインタビューは思い知らせてくれる。政治家が虚言を恥じなくなったら、世も末なのである。

もっともデリダは哲学者であるから、虚言の問題をそんなに単純化してはいない。デリダは、ハンナ・アーレントの虚言論や、フランス歴代大統領の発言をもとに虚言の意味を考えている。フランスの歴代大統領は、すくなくとも20世紀にあっては、いまの日本の政治家たちのように、見え透いた嘘をなげやりに示したりはしなかった。彼らが虚言を吐くときは、それなりに熟慮した結果なのだ。たとえばあのシラクにしても、ヴィシー政権下でおきたことについて虚言を吐くときには、ヴィシー政権が合法的なものだったという主張をそこに忍ばせていた。はじめからヴィシー政権を非合法と決めつければ、その政権がやった不都合なことをなかったことのようにするような虚言を吐く必要はないわけだ。

このように、政治で虚言が問題になる場合には、かならずその背後の政治的な思惑が絡んで問題にされる。ところが今の日本では、政治家たちは空気を呼吸するように嘘をつく。これでは問題にはならない。

「マルクス主義について」は、ダニエル・ベンサイードとの対話である。ベンサイードは、「時ならぬマルクス」の著者として、ソ連や東欧の共産主義体制の崩壊を前にして、マルクスの今日的な意義を全否定し、マルクスを歴史上の逸話に祭り上げようとする動きが出てきたことに対して異議を唱えた人だ。デリダも「マルクスの亡霊たち」を執筆し、こうしたあさはかなマルクス観に痛烈な批判を加えていた。その点で二人には一致するところがあり、その一致点に基づいてマルクスの今日的な意義を強調したのがこの対話である。

最後のインタビュー「正義とゆるし」は、「ゆるし」の意味とその可能性を巡る議論である。ここでいう「ゆるし」とは、ホロコーストなどの残虐行為に対して、それをゆるすことである。これは、口で言うのは簡単だが、その実はなかなかむつかしいテーマだ。というのも、人はゆるしと忘却とをしばしば同一視するが、忘却はゆるしとはまったく違う次元の事柄で、自分の受けた苦痛を単に忘れたというにすぎない。しかし本当のゆるしとは、忘れられない事柄をいつまでも忘れないでいて、しかもその忘れられないことをゆるすことなのだ。人がゆるすことのできることをゆるすとき、それはもはやゆるしではない。ゆるしの難しさは、ゆすることのできないものをゆるすというその困難さに根ざしている。

彼らの議論は、マンデラ時代の南アフリカでおこなわれたアパルトヘイトの残虐行為の問題を巡って展開している。アパルトヘイトの時代には、さまざまな非人道的な拷問が行われたが、それを刑罰とは全く違う意味合いで、純粋の記録として残して置こうとするマンデラ側の主張に対して、そんなことが果たして可能なのかという問題意識から議論が始まったようだ。ゆるしの問題は、ユダヤ・キリスト教文化においては、決してめずらしい事柄ではないが、それ以外の文化圏において、まともな議論になるのだろうか、という問題意識がどうも働いているらしい。





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