知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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サルトルの短編小説


サルトルは、論文「想像力」によってまず哲学者として登場したが、彼の名を高からしめたのは何本かの短編小説と一遍の長編小説だった。それらは文学の形式を通じて哲学を語ったといった体のもので、たしかに珍しさはあったが、文学作品としては奇妙な代物だったといえなくもない。ともあれ、これら一連の文学作品を通じて、サルトルは変な人間だという印象を世間に与えたようだ。

サルトルの短編小説としては、「壁」「水いらず」「部屋」があげられる。これらは筑摩書房版「世界文学大系」の中のサルトル編に収められているので、多くの日本人も読んだと思う。筆者も高校生の時に、この本を読んで感心したことを覚えている。

「壁」は文字通り壁の中に閉じ込められたレジスタンスの闘志が権力によって銃殺される恐怖を夢想する話であり、「水いらず」はインポの男と不感症の女の話であり、「部屋」は精神障害者の男と結婚した女の話である。いずれも非日常的な場面を描いている。小説というものには、多かれ少なかれ非日常的な部分があるものだが、それを全面的に取り入れた小説は、やはり珍しかった。おそらくサルトルはカフカの小説を読んで、非日常的な世界こそが小説の本道たるべきだと思ったのだろう。ただカフカの場合には、少なくとも登場人物にとっては、非日常的なものが非日常的と受け取られずに、それこそが日常なのだという錯覚に捉われているが、サルトルの場合には、主人公自身が自分を非日常的な世界に囚われていると自覚している。

個々の作品についてもう少し詳しく見ていこう。まず「壁」。これはスペイン内戦を背景にしたものだ。書かれたのは1937年の前半であるが、その頃スペインでは、人民戦線政府とフランコの反乱軍とが正面衝突し、フランコ側が優位な形勢にあった。この内戦にはヘミングウェーなど欧米諸国の知識人たちが人民政府側に立って参加したりして、世界中の注目を集めていた。フアン・ミロが「スペインを救え」というビラをまいて呼びかけたことはよく知られている。サルトルはそのビラに答える形でこの小説を書いたのかもしれぬ。いづれにしてもこの短編小説には、時代の差し迫った空気がこもっている。

主人公の「私」が数人の仲間とともにファランヘ党に捕らえられ壁の中に閉じ込められる。彼らには拷問と銃殺が待っている。それを夢想すると誰もが恐怖のあまり失神しそうになる。彼らは銃殺される瞬間を夢想する。こんな具合にだ。「よし、八人としておこう。『ねらえ』と号令がかかる。八つの小銃がこっちをねらっているのが見える。おれはきっと壁の中に入ってしまいたい気がするだろう。おれは背中で力の限り壁を押す。壁はびくともしない。恐ろしい夢のなかのように。そういうことはよく想像できるのだ。ああ、どんなにはっきり想像できることか!」(伊吹武彦訳)この夢想は、スペイン人が銃殺される場面を描いたゴヤの有名な版画をイメージしたものだろう。ゴヤの版画の中のスペイン人は、フランス人によって銃殺されたのだが、サルトルの小説の中のスペイン人は、同じスペイン人によって銃殺されるわけだ。

主人公の「私」は、仲間の大物の所在を吐けと強要される。「私」は苦し紛れに嘘を言う。そいつは墓地の中に隠れていると。その言葉を信じたファランヘ党が墓地を探すと果たしてその仲間がいた。彼がそこにいたのは「私」のせいではない。全くの偶然だったのだ。その偶然のおかげで「私」は良心の痛みを感じずに、釈放されることができた。これをどう受け取るべきなのか。小説はなにも語らぬまま終わる。

「水いらず」。これは性的不感症の女が主人公である。彼女は普段自分が不感症であることを意識していないのだが、それは夫が性的不能つまりインポだからだ。そんな夫に愛想尽かしをして他の男に色目を使うと、その男は当然のこととして自分の上に乗ってきた。その際に彼女は自分が不感症であることを思い知るのだ。「私はうめきはしなかった。ちょっと強く息をしただけのことだ。あの人はずいぶん重いんだもの。上へ乗られると息が切れてしまう。あの人は『うめいているね、いいんだね』といった。私はあれをしながらしゃべられるのは大きらいだ。われを忘れて夢中になってほしいのに、あの人は決して話をやめないんだ。私はうなりなんぞしなかった。第一、私は快感をもてない。それは事実なんだ。お医者さんがそういった」(同上)というわけである。

彼女は不感症ではあったが、性的な魅力がないわけではなかった。その魅力を女友達が次のように表現する。「でもこのひと、猥褻なからだ付きをしている・・・このひとはしなやかで細いけれど、何かみだらなところがある。どうもその感じがつきまとう。服をせいぜいピッタリ身にくっつけるようにしている。多分そのせいにちがいない。お尻のかっこうが恥ずかしいといっているくせに、お尻のところへピッタリくっつくようなスカートをはいている」(同上)。そこで男が引き寄せられてくるというわけである。

「部屋」。これは精神障害者の男と結婚した女の話だ。この男は、精神年齢が四歳の白痴となっていたり、あるいは進行性の分裂病を患っているとほのめかされていたり、実態がよくわからぬのであるが、それはサルトルが精神障害について正確な知識を持っていないことのあらわれかもしれない。そんな精神障害者と何故結婚したのか、この疑問に対して母親が答える。「あの娘は、あたしたちが想像していたのとは<別のこと>であの人が好きなのよ」(白井浩訳)というのである。その<別のこと>とはどうやらセックスのことらしいのだ。この女はその男とのセックスにほれ込んだというわけである。

「水いらず」の「私」も、「部屋」の「娘」も、どちらも一応自分の意思で自分の生き方を選んでいる。それに対して「壁」の中の男は、世界が自分の意思とは関係なく動いてゆくことを思い知らされる。意思という点では、正反対の方向を向いているわけだ。サルトルとしては、やはり自分の意思にもとづいて行動するタイプの人間のほうが好きだったようだ。「水いらず」や「部屋」の女主人公たちに、自分の生き方への迷いが見られないのに対して、「壁」の中の男は、自分自身の運命の主人公だという確実さのようなものを持てないことに、それは現れているように見える。





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