知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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私と他者:サルトルの対他存在論


他者(人間としての)の問題は、デカルト以降の認識論的哲学の伝統の中では最大のアポリアだった。デカルトの提起した前提の上では、他者は自立した存在としての基盤を持たない。他者は私によって構成されるというかぎりで、無機物や動物と何ら変ることはなかった。要するに、私に対して従属的な関係にある、私の付属物のようなものだったわけだ。ところがサルトルは、私を他者に対して従属的な立場に置き、私を他社の付属物に転化させることで、私と他者との関係を逆転させた。そして、そのことによって、他者の問題に光を当てようとした。それが「存在と無」の中で展開される「対他存在論」である。

サルトルは対他存在の議論を、即自存在及び対自存在の議論の延長として提起する。即自存在及び対自存在の議論は、ヘーゲルの「精神現象学」の議論を踏まえたものである。ヘーゲルは、即自存在を対象の対象そのものとしてのあり方、つまりカントの物自体のようなものとして位置付け、対自存在を対象の自分の意識にとっての現れ方として、つまり意識にとっての客体として位置付けたわけだが、サルトルは、即自存在を対象の事実としての存在、対自存在をその対象に対して志向的にかかわる意識そのものとして捉えた。そこに微妙な相違があるわけだが、対他存在の問題を、自分の意識と他者の意識の相克として捉える点では、共通するところが大きい。

ヘーゲルは、私と他者とのかかわりを「主人と奴隷」の間の相克の関係になぞらえて議論していた。その関係においては、主導権は私のほうにまずあり、主人としての私が奴隷を一方的に支配しようとすることから始まる。だがその試みの中で、自分自身が逆に奴隷によって規定されなおされる関係に陥る。そうした事態が進行することで、私と他者との関係は、堂々巡りに陥っていく。ヘーゲルはこうした主人と奴隷の関係から人倫の体系へとつき進んでいくわけであるが、その人倫の体系とは、私と他者とをともに包み込んだものである。ところが主人と奴隷の相克関係が堂々巡りに陥っているおかげで、なぜ主人と奴隷の関係から人倫の体系が生じてくるのか、わかりづらいところがあった。

ヘーゲルの主人と奴隷の議論が堂々巡りに陥った理由は、主人の意識の側から問題を見ているからである。奴隷は主人にとって一方的に支配される関係にある限り、あくまでも主人の意識の相関者にとどまる。それが相克の関係に転化するのは、主人と奴隷とがもともと相関関係を前提としていて、奴隷が存在しなければ主人もまた存在し得ないという、言葉の遊びを思わせるような関係にあるからに過ぎない。なぜ奴隷の側が、主人を逆に規定し返すのか、その内在的な理由は明示されない。というかされえない。だからヘーゲルは、奴隷のいない主人は形容矛盾だという言葉のトリックを使って、お茶を濁そうとするわけである。

サルトルの面白いところは、というか画期的なところは、私を他者によって眼差しを向けられる存在、他者によって存在せしめられている存在としてとらえなおしたことだ。ヘーゲルにいたるまで、他者というものは私の意識の相関者として、その根拠を私のうちにもった存在であった。だから私がいなくなれば他者も存在し得ない。要するにヘーゲルに至るまでのヨーロッパ哲学の伝統のうちでは、独我論が議論の地盤をなしていたわけである。ところがサルトルは、それとは真逆な議論を展開する。私は、私の存在根拠を、私自身のうちにもつのではなく、他者の自由の中に持つ、としたのだ。「事実、他者の自由は、私の存在の根拠である。けれども、まさに私は他者の自由によって存在するのであるから、私はいかなる安全をももたない。私は、他者のこの自由のうちにおいて、危険にさらされている。他者の自由は、私の存在をこね上げ、私を存在させる。他者の自由は、私にもろもろの価値を付与しもするし、私から諸々の価値を除き去りもする」(「存在と無」第三部、松浪新三郎訳)

この対他存在という概念は非常に斬新なアイデアだといえるが、サルトルは、この概念をどのような意図で持ち出したのか。従来のように私から出発するのでは、他者の問題がおいそれと解決できないのは、それまでの哲学史が証明している。人間同士の相克を始めて取り上げたヘーゲルさえも、私から出発したために他者を徹底的に基礎付けることができなかった。フッサールは共同主観性という概念を持ち出して、私と他者とが、互いに人間同士であることで、ある共通の世界を生きているのだということにより、他所の問題解決に手がかりをもたらそうとしたが、やはり私の意識の志向性にこだわるあまり、他者はせいぜい私にとっての他者にとどまってしまい、他所としてのあり方のままでその存在に確固とした根拠を持つことができなかった。それゆえ、私から出発することでは、他者の問題のアポリアは解消できない。発想を変える必要がある。今までとはまったくベクトルの異なった視点を持つべきだ。つまり、問題を逆の方から眺めればいいわけだ。

そうサルトルは考えて、他者を私によって基礎付けるのではなく、私を他者によって基礎付けようとしたわけであろう。そうすることで、私とは、究極のところ、偶然の存在なのだとする彼の基本テーゼとも折り合いがつくことともなる。私から出発すると、私の存在はどうしても必然的なものだと言いたくなる。ところが私が他者によって基礎付けられるような、この世界における相対的な存在なのだとすれば、私は偶然的な存在のままで、自分の存在の意味を考えることも出来るし、またそうした私の存在を根拠付けている他者(それはずっと広い意味では世界ということになろう)についても意味のある考えをめぐらすことができる、というわけであろう。

私というものがあって、それが世界全体を基礎付けるのではなく、まず世界という全体者があって、私はその世界にたまたま生まれてきた。その世界という全体者の前では、私も他者も偶然的な存在者に過ぎない、という議論は、ハイデガーが持ち出してきたものだ。サルトルの対他存在の議論も、そうしたハイデガーの流れの上に立っているものと見てよい。でなければ、私の存在根拠が他者であって、私はその他者の自由にうちにゆだねられている、というような議論は出来ないはずだ。ハイデガーが世界というところをサルトルは他者といい、ハイデガーが世界内存在というところをサルトルは他者によって基礎付けられた存在といっているわけである。

だがそうすることでサルトルの議論が、ハイデガーより窮屈になってしまっているのは否めない。ハイデガーのように人間を世界のうちに投げ出された現存在ととらえれば、人間の生き方は意識内に閉じ込められないですみ、もっと広々とした議論が展開できる。ところがサルトルは、対他存在を私と他者との間の狭い関係(しかも互いのまなざしの先にあるものとしての、いわばまなざし相関的な関係)に閉じ込めることにより、議論を窮屈なものにしている。サルトルの対他存在論が、マゾヒズムやサディズムをめぐるおしゃべりになってしまうのは、そういうところに理由がある。





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