知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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サルトルのサド・マゾ論議


サルトルの対他存在論の核心は、私の存在の根拠を他者のまなざしに求める点である。私が私であることの根拠を私のうちにではなく、他者のうちに求めるということは、私を自立した存在としてではなく、他者との関係性においてとらえるということである。ということは、私は自立した存在者として自己のうちに絶対的な根拠をもっているわけではなく、他者との相対的な関係性において成立するにすぎない。だから、他者の存在がなければ、私の存在もない。厳密な意味では、対他存在としての私がない。ところで私の本質的なあり方は、この対他存在ということにあるのだから、その対他存在が成り立たなければ、わたしの存在も成り立たないことになる。

サルトルはなぜこんなまどろこしいことを言い出したのか。その理由は、これによって人間を独断のまどろみから目覚めさせて、人間を孤立した意識としてではなく、他の人間との共同性においてとらえようとする意欲にある。つまり、人間をデカルト的な孤立から救いだして、世界の中において他の人間との社会的なかかわりのうちに置くための装置として、この対他存在の議論を持ち出したわけであろう。

ここまでなら、そう奇異なこととは言えない。人間が孤立した存在者ではなく、社会的な存在として他者とのかかわりのうちに生きていることは自明なことなのだから、それを哲学的に根拠付けるために、他者の意味について考察するのは、ある意味当たり前のことである。サルトルの議論が奇異な感じを帯びるようになるのは、人間同士の関係を相補的なものとして考えるのではなく、ある人間の存在理由を他の人間の眼差しのうちに求めるという、やや一方通行を思わせるような関係において考察することにある。

私が他者のまなざしの対象になるというのは、これもまたそんなに奇異なことではない。私が他者を意識するのは、サルトルに言われるまでもなく、他者によって見られていると私が意識するその時点だ。だから私が他者のまなざしの対象になるという事態は日常的に起っている。サルトルの議論が奇異に陥るのは、この他者のまなざしこそが、私の存在にとっての唯一の根拠とするとする点だ。私は、他者のまなざしにさらされることで、他者のうちに自分の存在のあかしをもつ。他者に見つめられることで他者のなかに確固とした存在の根拠を持つようになる私は、もし他者によって見つめられないときには、その他者にとってのみならず、他者一般、つまり人間社会にとって何者でもない。その場合にも私の対自存在は残るかもしれない。しかし対自存在というのは、私の私にとっての存在であって、私が世界のうちに他者とともに存在していることの根拠にはならない。世界のうちで他者と共存している存在としての私は、あくまでも対他存在としての私である。

ところでこの対他存在論は、とりあえずは私とその私を見つめるもうひとりの人との間の一対一の関係のうちで考察される。この関係は、見つめるものと見つめられるものとの関係という形になるが、その関係からサルトルが導き出してくるのは、マゾヒズムとサディズムについての議論である。マゾヒズムとサディズムはどちらも人間関係の一つの極限を示すものではあるが、世間で思われているような異常なものではなく、対他存在としての私がとりうるごく当たり前の事態である、というよりか、対他存在としての私にとっては、論理必然的に陥らざるを得ないものだ、というふうにサルトルは捉えている。その理屈は以下のようである。

サルトルの対他存在論における私と他者との関係は、眼差しを向けるものと向けられるもの、見つめるものと見つめられるものとの相克であるとする点で、人間関係をまず主人と奴隷との相克と捉えたヘーゲルと似ているところがある。違うのはヘーゲルがその相克を支配と被支配の関係と捉えたのに対して、サルトルがそれを愛するものと愛されるものとの恋愛の関係になぞらえていることだ。この関係において、見つめられるものは見つめるものによって自分の存在が根拠付けられると確信できるのであるが、それは即自存在としての私がまったく偶然でどうでもよい存在であったのに対して、私の存在が他者によって必然性をもって根拠付けられることを意味する。私は他者の自由な選択によって眼差しを向けられ、そのことによって対他存在としての私が根拠付けられる。それ故私は、他者の他者自身の選択によって、彼の眼差しが私に向けられることを願うようになる。その願いは愛する人の愛が自分に向けられるように願う恋人の心理に似ている。というわけで、サルトルの対他存在論にもとづく人間関係論は恋愛をモデルにしたものになる。人間同士の関係は、愛をめぐる、求め、求められる関係に昇華されるわけだ。この関係の究極的な形が、マゾヒズムとサディズムという両極端の様式をとる、これら二つは恋愛のそれぞれ両極をなすものだが、しかし相互に反転可能な、密接な関係にある、そうサルトルは見る。

対他存在としての私は、愛するものが愛されるものから愛を向けられることを望むように、他者によって眼差しを向けられることを望むが、眼差しを向けられることによって、私は他者にとっての他者=対象となる。しかし私はその他者に向かって眼差しを向け返すこともできる。そうすることで私は、他者を私にとっての対象に転化させる一方、私自身は対他存在としての存在根拠を失うこととなる。その相関関係の中で私は揺れ動くこととなる。他者によって眼差しを向けられている私が、あくまでその対他存在としてのあり方に満足してそれに閉じこもるのか、あるいは私のほうから他者に対して眼差しを向け返し、そのことを通じて私自身が他者の存在根拠となり、そのことを通じて他者を支配しようとするのか、この動きのなかで揺れ動くわけである。そのうちで、私が対他存在としてのあり方に甘んじ、あくまでも他者の眼差しのうちで生きようとする態度がマゾヒズムだ、とサルトルは言うのである。「マゾヒズムは、私の対象性によって他人を魅惑するための試みではなく、むしろ私の『対他―対象性』によって自分で自分を魅惑させるための一つの試み、すなわち他人によって私を対象性として構成してもらうための一つの試みである」(「存在と無)松浪信三郎訳」

これに対してサディズムのほうは、私が他者に向かって眼差しを向け返し、そのことによって他者を私にとっての対象性に転化させ、他者を支配しようとする欲望である。この欲望は単なる眼差しを向ける運動にはとどまらないで、他者を肉体的・精神的に支配しようとする性的欲望という形をとるとサルトルはいう。「他人の『対私―対象性』をとおして、他人の自由な主観性を奪い取ろうとする私の根源的な試みは、性的欲望である」(同上)。

「サディズムは、受肉した存在を他人に実感させるために、他人の身体を一つの道具として利用することを求める。サディズムは、暴力によって他者を受肉させるための一つの努力である」(同上)。このように言いながらサルトルは、性的欲望と暴力との関係についても言及してゆくのだが、人間同士の関係は、もしそれが自由に支えられていない限りは挫折せざるを得なくなることを強調することも忘れない。それ故、他人を支配しようとする意思は、支配される他人がそれを自分の自由によって受け入れるのだと前提せざるをえなくなるのだが、しかしそれは矛盾に満ちた前提であるといわねばならない。支配と自由とが幸福な調和を保ったままでいることはほとんどありえないからだ。

こうしてサディズムは隘路に迷いこまざるをえなくなるが、それはマゾヒズムも同様だ。マゾヒストは自由な選択によって自分を他人にとっての対象性に純化させようとするのだが、それは他人が自由な意思にもとづいて私を選択しつづけるという擬制の上になりたっていた。それゆえマゾヒズムもサディズム同様、人間関係の隘路に迷い込まざるを得なくなるわけである。

こんなわけで、対他存在論に代表されるサルトルの人間関係論、言い換えれば世界内存在としての人間のあり方をめぐる議論には、明るい出口がないように見受けられる。サルトルの指し示す、私の生きる世界とは、私にとってもある意味疎遠なものにとどまったままだ。私はその世界で、安住できることがない。私はその世界では、自分が十分に根拠付けられていると、確信をもって言うことが出来ないのだ。





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