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アルトナの幽閉者:サルトルの戯曲


サルトルは戦後演劇活動に力を入れ、結構な数の戯曲を書いた。「アルトナの幽閉者」はその代表的なものである。1959年の作品だから、彼の演劇活動の後期に属するものだ。

第二次世界大戦についてのドイツ人の責任意識のようなものをテーマにしている。フランス人のサルトルが何故ドイツ人の戦争責任を、しかも戦争が終わってかなり経った時点で取り上げたか。戦争責任ならフランス人にとっても無縁ではない。フランスがドイツに占領されるや、ドイツ人の片棒を担いだフランス人は沢山いたわけだし、ユダヤ人迫害に手を貸したフランス人もいた。だからフランス人の戦争責任をサルトルがとりあげることにはそれなりの理由があると言えるが、サルトルがドイツ人の戦争責任を云々する戯曲を書くことにはどんな理由があるのか。この戯曲を読むと、どうもサルトルは、フランス人としてではなく、人類の代表者として、ドイツ人の戦争責任を断罪しているフシがある。人類の代表者としての資格なら、国籍は問わず、人類に対して犯された罪を告発する理由があるというわけなのだろうか。

サルトルは、戯曲が始まる前の冒頭の「はじめに」という部分で、登場人物にゲルラッハという苗字を与えたのは間違いだったと反省している。サルトルはこの苗字を純然たる創作のつもりで用いたのだが、実際には無意識の記憶に左右されていたというのだ。その記憶とは、ゲルラッハという実在のドイツ人の人物が反ナチズムのために戦い、この世から消されたことに関するものだった。だから、ゲルラッハ本人に対して自分はフェアではなかった、とサルトルは言うわけなのだが、といってこの戯曲そのものが間違っているとは言っていない。ということは、ドイツ人にはやはり戦争責任がある、そうサルトルは考えているようなのだ。

この戯曲は、ゲルラッハという苗字を持つ一家の間の出来事を描いている。一家のメンバーは、父親、長男のフランツ、次男のウェルナー、ウェルナーの妻ヨハンナ、長女レーニである。この一家はアルトナの大きな屋敷に住んでいる。アルトナはハンブルグの西側に隣接するエルベ川沿いの街で、造船所がある。ゲルラッハの父親はその造船所の経営者なのだ。造船所の経営者として、戦時中はナチス・ドイツのために船を作り、戦後はドイ復興にひと肌脱いだということになっている。

この屋敷の二階の一部屋に、長男のフランツが閉じこもっている。彼はすでに十三年間もここに閉じこもり、世間との接触を絶ってきたのだ。その世間には父親も含まれる。唯一彼が接触してきたのは、自分の身のまわりの世話をしてくれる妹のレーニだけだ。彼がここに閉じこもるようになった理由はいくつかある。まず、戦争中にユダヤ人をナチスに引き渡したという自責の念に駆られたこと。これには父親が深くかかわっている。父親がそのユダヤ人をナチスに密告したのだが、そのユダヤ人はフランツ自身がかくまっていたのである。ついで、父親の配慮で、ユダヤ人をかくまっていたことを大目に見てもらう条件として、ロシア戦線へ従軍していたときに、スモレンスクでロシア人捕虜の虐待にかかわったこと。最期に、レーニをめぐってアメリカ人を殺すハメになり、父親がそれをもみ消す為に息子に失踪の偽装をさせ、挙句には死亡したことに見せかけたこと。以上の事情が絡んで、フランツは屋敷の一部屋に自分を閉じ込めてしまい、父親とも会おうとしなくなった。ところが、父親はがんが進行し、余命半年と宣告される。そこで死ぬ前に息子のフランツと話をしたいと願う。そんな父親と息子のフランツを中心にして、ナチスの犯罪とか、それに加担したドイツ人の責任とか、そういった事柄が議論される、というのがこの劇の基本プロットとなっている。

フランツは非常に陰のある人間として描かれている。彼は自分の世話をしてくれる妹のレーニと近親相姦を犯した。しかしそのことについて、彼自身も妹のレーニも罪の意識は感じていない。特にレーニは、兄のフランツを恋人として受け止めている。フランツはまた、弟の妻ヨハンナを一目見て惚れてしまい、彼女とも恋人の関係になる。ヨハンナは、夫とともにこの家から開放されることを願って、父親と取引をしてフランツと接触するのだが、早速フランツの誘惑に負けてしまうのだ。彼女がなぜ、そのような境遇に陥ってしまったか、サルトルは十分に描ききれていない。ヨハンナは理屈ばかり言っている頭でっかちの女として描かれており、そんな女がなぜ、夫の兄であるフランツの誘惑を受け入れたか、戯曲の行間からは伝わってこないのである。

フランツが一番こだわっているのは、自分の運命に父親が大きな影を投げかけてきたことだ。そもそも自分と世間とを隔てることになったユダヤ人のナチスへの引渡しの一件そのものが、父親の密告によるものであったし、アメリカ人殺害事件をもみ消す為にフランツを失踪させた挙句死亡したことにしたのも父親だった。その父親との間で、フランツは十三年間も交通を絶ち、自分自身は歴史の審判に立ち向かっているつもりでいた。部屋の天井にカニたちが住んでいるが、彼らは三十世紀からやって来た審判者たちで、自分も含めて二十世紀の人間たちが犯した罪を裁いていると妄想しているのである。

こんなわけでこの戯曲は、フランツの妄想を核にして展開してゆく。フランツの妄想の主な内容は、自分が人間性というものに対して犯した罪をどう償うかということだ。しかし、フランツの罪には父親も大きくかかわっているために、彼は自分ひとりだけで罪の償いをするわけにはいかない。それには父親も共犯者としてかかわらなくてはならない。それ故戯曲の最期で、フランツは父親と一緒に死ににゆくのである。フランツと父親を死なせることで、サルトルはドイツ人の戦争責任の問題に一定の解決を与えたつもりでいたのだろうか。それもフランス人としてではなく、人類の代表者として。

題名の「アルトナの幽閉者」は、複数形なので、幽閉されているのは現実に部屋に閉じこもっているフランツだけではなく、この家族全体だと読むことが出来る。ともあれフランツは誰が見ても幽閉された形になっている。だがフランツはそれを強制されたわけではなく、自らの意思で選択したのだ。その理由をフランツは一言で言い表す。「ぼくはドイツの死を願い、ドイツ復活の証人にならないために閉じこもったのです」。つまりドイツに絶望したというわけである。絶望はやはり罪である。だからフランツは続けて父親に向かって言う。「ぼくを裁いてください」と。それに対して父親が、「拷問の下手人が密告者の宣告を受けるのかね?」と答える。相応しい裁き手はこの世にはいないという意味だろう。ということは、父親は、この世には神はいない、と考えていると受け取れるわけだ。だからフランツは驚いて父親に確かめるのだ。「神はいないということですか?」と。それに対して父親は改めて答える。「神はいないのではないかと思うな。神がいないので、時には困ることもあるのだ」(以上水戸多喜雄訳)と。ドイツ人を代表しているかのような父親にこう言わせることで、サルトルは何を言いたかったのか。色々な解釈ができるだろう。





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