知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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相克と協働:廣松渉のサルトル批判


サルトルは、ヘーゲルの自己意識論に依拠しながら、独自の対人関係論を展開したが、廣松渉はそれを、自分の「共同主観性」論と対比させながら、その意義と限界について論じている。(「世界の共同主観的存在構造」Ⅱ、一、第二節 役柄的主体と対他性の次元)

主著『存在と無』においてサルトルは、ヘーゲルの概念を援用しながら、精神的自我=自己意識が成立して来る過程を分析した。サルトルはヘーゲル同様、自己意識の分析を個人の意識内部に限定して論じるのではなく、他者との関係において論じた。この他者との関係における自己のあり方を対他存在、自分自身との関係におけるあり方を対自存在とし、これら対他―対自の存在関係を分析することで、自己意識が孤立した意識ではなく、他者との関係を内在させていることを暴き出したわけである。

しかし、この自己の他者との関係を、ヘーゲルがそうであったように、サルトルも実りのある議論に発展させることができなかった、というのが廣松の基本的な評価である。自己と他者との関係は、サルトルにおいては、協働の関係というよりは、相克の関係にある。それは、ヘーゲルの自己意識の議論が、主人と奴隷の議論に収束されたように、不平等な関係についての議論であり、人間関係を食うか食われるかという側面に矮小化する議論である。

たとえば、羞恥について。サルトルは羞恥を、他者によって見られているという意識に根差す現象だと捉えたうえで、自分を見る相手との相克の関係について延々とした議論を展開するわけだが、廣松はそうしたサルトルの議論を、"サディコ・マソヒズム"の議論だと言って批判する。相手のまなざしに反発して相手を屈服させようとする意思をサディズムとし、逆に相手に屈服してしまう意思をマゾヒズムと定義して、両者の絡み合いを説く議論だというのである。

「畢竟するに、『意識個体の相互間の関係の本質は、共同存在 Mit-dasein ではなく、相克なのである』。人間関係は、所詮"サディコ・マソヒズム"の埒を超えることはできない。~これがサルトルのテーゼである」(上記第二節、以下同じ)

人間同士の関係とは、こうした相克的な関係に止まるものではない、と廣松はいう。人間同士の関係には協働的なものもある。協働的な関係においてものをいうのは、「役柄」の遂行である。役柄と言うのは、複数の人間同士の関係を前提としている。その関係の中で、ある人は別の人たちによって一定の役柄を演じることを期待される。人間とはこの役柄の期待に応える「役柄存在」としての性格を持っているのである。

先の羞恥に立ち返っていえば、羞恥とは単に他者の眼差しを意識することではなく、自分に期待されている役柄を適切に演じることが出来なかったという、自責の念に根差している。「裸体を人目にさらしてはならないという『役柄存在』との反照においてはじめて、裸体が羞恥をさそうのである」(同上)

こうしてみれば、人間同士というものは、互いに共通の了解に立ちながら、己に期待されている役柄を相互に演じあうという関係にある。それは、いうまでもなく、協働という関係である。

他者の眼差しについても、サルトルが言うような、自分を凝固させるだけの作用にとどまるわけではない。「眼差しはむしろ、一種の『呼びかけ』である」。それは私に、ある種の応答をなすようにうながす。私はその呼びかけに応えて、相手の期待している役柄を果す。こうすることで私は、「この表象された自他のあり方への""脱自的"な"変身"を"投企"するのである。要言すれば、私の脱自的な投企は当事他者との協軛的な役柄遂行を志向する」(同上)のである。

これからわかるように、人間関係というものは基本的に、人間同士の協働の関係なのであり、どのような個人も、この協働の関係のなかにおいて、自分についての意識、自己意識を確立していくのだ、と廣松はいう。人間とはだから、協働的存在であり、言い換えれば(ハイデガーのタームを使えば)協働現存在だということになる。

「役柄行動は、役柄が本質的に共軛的であるかぎり、必然的に『協働』である。他的対自=対自的対他としての役柄存在は主体と主体との出会いにおける間主観的<相互主観的=共同主観的>な協働的存在であり、人間存在はこの在り方において、『協働現存在』 Mit-dasein であるということができよう」(同上)

サルトルが折角他者の問題を認識論の分野に取り込みながら、自己と他者の関わり合いを相克としてしか捉えられず、協働として捉えられなかった所以は、サルトルが基本的に「主観―客観」の二元論を超えられなかったためだ、と廣松はいう。

「サルトルの『主観―他者』の"存在証明"の企図は、それが近代哲学の地平内ではいかに最高の水準を誇り得ようとも、所詮は『対自―即自』『主観―客観』の二元的切断の構図を大前提にしており、蓋しわれわれのとりうるところではない」(同上)

「主観―客観」の二元論とは結局、人間の意識を出発点とする立場である。人間の意識から出発する限り、他者の存在は自分の意識の相関者としてしか現れようがない。ところが、人間の意識というものが、根本において他所との関係に媒介されているものだとすれば、個別の意識から出発するのではなく、共同的な存在としての人間存在から出発しなければ、その本当の姿が見えてこないということなのだろう。これは「卵が先か鶏が先か」と言う、あの不毛な議論に移行していく危険性を秘めた言い方だが、いずれにせよ、「主観―客観」の二元論にこだわっている限り、人間存在の本質は見えてこないということができよう。

廣松には本当に、このことが見えていたかについては、また別の次元の問題である。廣松は「共同主観」という言葉を使うが、この言葉は主観がまず先にあって、それが結びついて「共同主観」になるという機制になっている。しかし、それでよいのか、という疑問は依然残る。本当は共同体が先にあって、その一つの範例として、個人が抽出されてくる、と言えなくもないからだ。




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