知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルをどう読むか


バートランド・ラッセルは「西洋哲学史」の中で、「ヘーゲルの諸学説が殆どすべて誤りであるとしても(そしてわたしはそう信じているのだが)、なお彼はある種の哲学のもっともすぐれた代表者として、ただ単に歴史的なものではない重要性を、保持しているのである(市井三郎訳)」と言っているが、これはヘーゲルに限らず、一流と言われる哲学思想家には、多かれ少なかれ当てはまることである。というのも、西洋の精神的な伝統を支えてきた哲学というものは、一方では体系へのやみがたき情熱に駆り立てられながら、他方では体系を築き上げるための礎を必要とするものだが、多くの場合打ち立てられた体系が荒唐無稽の代物になりやすいのに対して、礎の方は別の体系のための土台(方法といってもよい)にもなりうるからである。

体系という点に関していえば、ヘーゲルほど体系にこだわった哲学者はいないだろう。ヘーゲルによれば、世界とは一つの単純な原理に従って成立している壮大な構築物なのだ。その単純な原理とは精神のことである。世界の究極的な原理としての精神が、自ら展開することによって世界が生成する。ヘーゲルはそう考えるのだ。何故そうなるのか、それは世界の実体としての精神が主体であるからである。主体である実体は自ら運動することができる。その運動が世界を生成させる。ヘーゲルはそうも考えるのだ。

ヘーゲルによれば、自然的な世界も精神的な世界も同一の原理によって動いている。その原理の内実をなすものは絶対精神である。絶対精神が物の形をとると自然的な世界としての相貌を呈し、意識の形をとると精神的な世界の相貌を呈する。だから意識とその対象としての自然的な世界とは、無媒介に対立しあうのではなく。同じものが違う形を取って現れているに過ぎない。二つとも同じ原理によって動いている。その原理をそれとして取り出せば、それは論理学の内容と同じものになる。ヘーゲルは更に進んでそう考えるのだ。

こんなふうに整理すると、ヘーゲルの体系がスピノザのそれに似ていることに気づく。スピノザの場合においては、神が世界の究極の原理である。実体としての神が展開したもの、それが世界である。だからそれは神の別名なのだ。あるいは神とはこの世界を別の言葉で置き換えたものなのだ。しかしスピノザの神は、ヘーゲルによれば、静止したものである。それは動かない。どこまでも止まったままである。というより、たんにそこにある。そこに存在している。何故そこに存在しているのか、その理由は問題にならない。ただただ存在すること、それが神の本質なのだ。

これに対してヘーゲルの絶対精神は、静止したままのものではなく動いているものである。それは絶対精神が実体であるとともに主体であるからだ。主体とは自ら動く存在なのである。というのは、主体とは精神なのであるから。これを言い換えると、精神は実体である、実体は主体である、主体は精神である、と云う具合に一つの円環運動が成立する。この世界はいたるところ精神が充満しているというのが、この円環運動の内実なのである。

ヘーゲルの絶対精神はまた、絶対知という形をとることで、神よりも上位の概念に位置付けられる。ヘーゲルにあっては、神とは絶対知のひとつの段階を示す概念なのだ。これはある意味ですごい主張である。神が精神のとる一つの段階などというと、神は絶対者の地位から引きずりおろされて、人間の精神の一つの形、つまり付属物に過ぎないということになる。それはもう理神論を超えて無神論の領域にある考えだといってよいほどだ。それでもヘーゲルが自分を無神論者などと思わなかったのは、彼にとっての神が非常に特殊な神だったことを物語る。

ともあれヘーゲルの体系は、絶対精神という単純な原理によって貫かれた非常に整合的なものである。絶対精神が物質の形をとると自然が成立し、絶対精神が意識の形をとると精神世界が成立し、精神世界が人間社会に行き渡ると人倫世界が成立する。そしてこの人倫の世界にも絶対精神はあまねく貫徹する。その結果、そこからは歴史哲学やら法哲学やらを貫く様々な原理が抽出される。それらの原理はすべて同じ糸によって紡がれているのである。

絶対精神は主体であるばかりではない。主体としての絶対精神は、一人ひとりの個人にとっては己の存在の根拠であるが、同時にまた、個人とは別物として、個人が獲得すべき知のあり方であるともいえる。言い換えれば、個人は絶対精神から見れば一つの疎外体であるが、個人から見た絶対精神は知の客体である。しかして個人は自分の意識の経験を重ねることによって、この絶対精神の最高のあり方に到達することが出来る。その最高のあり方とは絶対知のことである。個人の意識が経験を重ね、ついに絶対知の境遇に到達する、その経過をたどったものが「精神の現象学」といわれるものだ。

ところでヘーゲルの「精神現象学」という書物は実に面白い本だ。とにかく読みづらくて何が書いてあるのかチンプンカンプンなところも多いのだが、そこを我慢して読み抜くと色々なことが見えてくる。これは基本的には、感性的な知から始まって次第に複雑性をまし、最後には絶対知に至る人間の意識の経験を陳述したものなのだが、その過程で、絶対精神の壮大な体系が現れて来ると同時に、人間の精神の活動の原動力をなしている要素も現れてくる。絶対精神の現れと称する体系の部分については、ラッセルがいうようにほとんど誤りだといってもよいが、それを紡ぎだすところの原動力となるもの、つまり方法については、なかなか捨てがたいものがある。

ヘーゲルの方法とは、簡単にいえば、弁証法と呼ばれるものだ。ヘーゲルはこれを、人間の認識活動を貫く原理であると捉える一方、意識にとっての対象的な世界を貫く原理であるともみている。つまり対象世界と人間の認識活動とは互いに無媒介に対立する者ではなく、同一の原理によって動いている。その原理を対象に即してみれば実体とか法則という形をとり、人間の認識に即してみれば概念という形になる。法則と概念とは同じ一つの物が異なった相貌で現れているのだ。ヘーゲルはそう考えるわけなのである。

それ故この弁証法は、極めて観念論的な相貌を帯びることもあるが、マルクスの唯物論と結びつくといった風に、変幻自在なところもある。その変幻自在なところが、ヘーゲルの哲学を20世紀まで生きながらえさせた最大の要因だということもできる。読み方次第でいかようにも料理できる手合いの思想。それがヘーゲルの弁証法だ。一方ヘーゲルの体系の方は、すでに19世紀にうちにその存在意義をほとんど失っていたといってよい。




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