知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルの認識論


デカルトが人間の「考える」働きを問題として取り上げて以来、認識論は西洋哲学の中心テーマになった。人間の認識の働きは、一方では人間の存在の根拠となるとともに、それを通じて人間が世界を了解する通路ともなった。人間というものは、認識作用を媒介として、己自身と向き合うと同時に世界とも向き合う、というわけだ。

デカルトの確立した認識論にあっては、認識という作用の場を巡って、認識する主体というものが主観として一方にあり、認識される対象が客観として他方にあるということになる。認識作用というものはこの主観―客観図式を中心として展開するわけである。

このような図式にあっては、主観の認識作用が客観に一致すること、それが真理だということになる。この場合の客観というのは、あくまでも主観である人間の意識そのものとは別のものだという前提がある。デカルトの場合には、人間の認識作用を担っているものとして自我という実体がある一方、その自我にとっての対象は自我とは別の実体だということになる。デカルトにとってその別の実体はとりあえず「延長」を本質とする物理的な世界である。この物理的な実体である対象世界と、精神的な実体である自我の意識が出会うところに認識というものが成立する。そう考えるわけだ。

この主観―客観図式を極限まで追求したのがカントである。カントは、人間の認識能力にはアプリオリに備わった枠組があり、それにしたがって対象を認識することになっているが、対象の背後にある物自体そのものは認識できないとした。人間が認識できるのは、アプリオリな枠組に収まった物自体の絵姿としての対象であり、物自体そのものではない。恰もカメラのレンズに収まった図柄が、被写体の絵姿であって、被写体そのものではないのと同じように。

このような前提に立ったうえで、カントは人間の認識の及ぶ範囲、その限界について深い考察を加えた。その結果人間の認識とその成果である概念には、客観的で実在的なものと、主観的で観念的なものとが混在していることに注目した。その上で、主観的で観念的な概念について、その限界を強調した。例えば羽根の生えた馬という概念があるとする。この概念にはどこにも論理的な矛盾はない。しかしだからといって、その実在性を主張することはできない。何故ならこの概念には経験による裏打ちがないからだ。カントはこういって、人間の陥りやすい傾向について批判を加えるのである。しかしその批判は、羽の生えた馬のような概念にとっては有効性をもちうるけれども、たとえば神の実在性と言った理念になると、すぱっとわかりやすくというわけにいかなくなる。世の中には神の実在性について本気で信じている人たちは多いものだし、その人たちが間違っていると説得するのは骨の折れることなのである。

ヘーゲルのユニークなところは、カントの拠って立つこの主観―客観図式をクリアしてしまうところにある。それをヘーゲルは、次のようにいっている。

「それ自体で存在するものを認識によって意識のもとに獲得しようとすることが、そもそもの始めから矛盾に満ちた試みであり、すでにして認識と絶対的なものとの間にきっぱりとした境界線が引かれている、ということになる」(精神現象学「はじめに」長谷川宏訳、以下同じ)

つまりヘーゲルは、主観と客観とを別々のものとして峻別する立場を根本的に批判しているのである。それではヘーゲルは、人間の意識の中における主観と客観との関係をどのようにとらえていたか。

ヘーゲルはまず、意識の中での対象のあり方を分析することから始まる。それをヘーゲルは知と真理という二重の相のもとに考察する。

「まず、意識のむこうに意識とは区別されるなにかがあって、意識は同時にそれに関係している。いいかえれば、意識に対してなにかがあって、そこでの関係という側面、つまり、なにかが意識に対してある側面が"知"である。が、なにかが他の何かに対してあるのとは別に、それ自体であるという側面が考えられる。つまり、知の関係するものは、関係すると同時に知から区別され、この関係の外に存在するものとも考えられるのであって、この"それ自体(本体)"が"真理"と名づけられる」

つまり対象には、意識に対してある"対他存在"という契機と、それ自体としての存在"自体(即自)存在"という二重の契機がある。そして注意すべきなのは、そのどちらも意識と離れて存在するものではなく、意識のなかでの存在なのである。ここから意識から独立した客観というものは否定され、したがって従来のカント的な主観―客観図式もクリアされることとなる。

こう考えれば、認識の尺度は我々自身のうちにある、ということになる。我々は自分の認識が外的な存在である対象と一致しているかどうか、もう思い悩む必用はないのだ。何故なら我々自身が尺度であるから。そのへんをヘーゲルは次のようにいっている。

「意識は自分でものさしを調達できるので、真偽の探求も意識だけで片の付く比較である。というのも、上に述べた知と真理の区別は意識自身の行う区別だから。・・・知を概念と名づけ、本質ないし真理を存在ないし対象と名づけるものとすれば、真偽の吟味は、概念が対象に一致するかどうか調べることだということができる。反対に、対象の本質ないし本体を概念と名づけ、対象を他に対する対象の意味にとれば、真偽の吟味は、対象が概念に一致するかどうかを調べることだということになる。どちらのいい方も同じ事態をさしているのはいうまでもない。肝心なことは、概念と対象~"他に対する存在"と"それ自体での存在"~という二つの面が、二つながら、わたしたちの探求する知そのものに属し」ているということである。

つまり、ヘーゲルはわれわれが客観的な対象だと思っていたものも、よく考えれば我々の意識の中で存在しているにすぎないのであり、我々の意識を離れた外的な存在としての対象にこだわるのはナンセンスだといっているわけだ。ということは、ヘーゲルは意識一元論を主張しているということだ。ヘーゲルにとっては"主観=意識"対"客観=対象"という図式は成立しない。成立するのは"意識(主観―客観)"ともいうべき関係である。つまり意識一元論のなかで、主観と客観とが相互に関係しあう、という図式である。

このように、主観―客観図式を意識の領域に還元するという方法には、後のフッサールを予想せしめるところがある。フッサールは、現象学的還元という方法を意識的に用いることで、主観―客観の対立という構図を一端カッコの中に括ってしまうわけだが、このカッコに括るというのはフッサールにとっては、すべてを意識の地平に閉じ込めることを意味していたわけである。

ヘーゲルのユニークなところは、主観―客観の対立図式を意識の領域に閉じ込めるにとどまらず、その意識というものに巨大な実在性を付与するところにある。つまり個々の人間の個々の意識とは、絶対精神と云う集合的な精神が自己を個別化したものに他ならないと考えるわけである。絶対精神にあっては、主観も客観も精神そのものの存在の様相の一部を為しているに過ぎない。そのようにして個々の個人の精神(意識)にあっても、対象と概念とはともに、精神が自己を外化したものに他ならない。世界は絶対精神の一元論によって説明されるのだ。


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