知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルのカテゴリー論


西洋哲学の伝統においてカテゴリーとは、概念のなかでも最も普遍的な概念という意味で捉えられてきた。ということは、概念を分類のものさしで図ったということである。概念を分類したうえでの最上位のランク、それがカテゴリーとされる。それ故、カテゴリーが問題となる場合には常に、分類の一覧表というものが作られてきたわけである。

しかし、何をどのように分類するかについては、学派によって違う。アリストテレスの場合には、存在の本質をその根本的な様態に従って分類した。対象となるのは存在であり、分類の物差しとなるのはその属性なのであった。したがって、アリストテレスのカテゴリーは、存在のもっとも普遍的な様態をあらわすこととなった。

カントの場合には、カテゴリーとは、人間の認識にアプリオリに備わった能力のことをいう。それは人間が対象を概念的に把握する際の枠組となるのであり、人間は対象をこの枠組に当てはめることで、概念的に認識する。したがってカテゴリーは存在するものの客観的なあり方というよりも、人間の認識作用にそなわった主観的な形式ということになる。

カントにあっては、人間の概念的な認識は、主語と述語とを結びつける判断の作用によって成り立っている。与えられた対象を主語として、それに一定の術語を結びつける、その作用において判断が働くわけである。したがってカテゴリーの分類は、判断の種類にしたがってなされる。その結果、12種類の判断からなる判断表に基づいて、12種類のカテゴリーからなるカテゴリー表が導き出されるわけである。

ヘーゲルにあっては、存在と認識、対象と主体、客観と主観、といった対立は偽の対立に過ぎない。存在といい、認識といい、それらは絶対精神が自己疎外して個別化したものに過ぎないのである。ただ、個別化されたものの制約された見地から見る限りでは、この偽の対立が本物の対立のように見える。そして、その対立のうちで、対象側にウェートを置くと、カテゴリーは存在の様態であるかのように見え、主体の側にウェートを置くと、カントのように人間の認識作用にアプリオリに備わった枠組だと錯覚するわけである。

では、ヘーゲルにとってのカテゴリーとは何か。まず、ヘーゲル自身に語ってもらおう。

「カテゴリーとは、自己意識と存在とが同じ本質を、それも、なんらかの比較にもとづいて同じだというのではなく、徹頭徹尾同じ本質をもつことを示すものなのだ。そうした統一に分裂を持ち込んで、一方の極に意識を置き、他方の側に物自体を置くのは、一面的な、悪しき観念論のしわざというほかはない」(「精神現象学」Ⅴ、理性の確信と真理、長谷川宏訳、以下同じ)

ここでヘーゲルが言っているのは、カテゴリーとはカントのいうように意識の側に備わったものでも、物自体(存在)に備わった属性でもなく、その両者の統一体であるところの精神の本質体そのものなのである。自己意識も存在も、この精神が自己疎外して個別化したものなのであるから、自己意識と存在とが全く同じ本質を持つのは当たり前で、この精神における本質体こそがカテゴリーと呼ばれてしかるべきなのだ、ということになる。しかして、その本質体は概念の形をとる。したがってカテゴリーとは概念の形を取った精神のことをいうのである。

ところで、ヘーゲルのカテゴリー論は、「大論理学」の中で本格的に展開されるが、ここでは「精神現象学」の記述をもとに考えていきたい。そのほうが、カテゴリーが精神の本質体だとするヘーゲルの基本思想がよく見えて来るからである。

さて、上述の部分に続いて、ヘーゲルは次のようにいう。

「複数のカテゴリーを、たとえば判断のなかから、掘り出し物か何かのように取りだしてきて、それなりに意味のあるものとして受け入れるのは、実際、学問の恥と見做されるべきことなのだ」

これは、カントのカテゴリー論を痛切に批判しているのであるが、ここでヘーゲルが気に食わないのは、カテゴリーというものを一覧表で列記できるような形式的なものと考える態度なのである。カテゴリーとは精神のはたらきそのものの中から生まれて来るので、元来が動きのうちにある。精神とは動的なものなのだ。一覧表の中におさまるような、せせこましいものではない。

この、動く精神のあらわれとしてのカテゴリーを、ヘーゲルは「純粋な統一体たるカテゴリー」と呼んでいる。この意味におけるカテゴリーは、精神の概念的な働きそのものを差しているわけである。

以上は、意識と存在、主体と対象、主観と客観とをつらぬくカテゴリーの働き方を論じたものである。が、人間にはもう一つ別の次元の対立がある。個別と普遍、個人と類としての人間(共同体)との対立である。

ヘーゲルにとっては、この対立も見せかけの対立である。何故なら共同体から完全に自由な個人というものはない。個人は共同体を通じて自己を実現する。個人はあくまでも共同体とのかかわりのなかでしか人間として生きてはいけないのだ。そう考えるヘーゲルにとっては、個人の心情と共同体の掟とは、最終的には一致すべきものだし、また実際に一致しているのだ。つまり、個人の「心の掟が万人の心の掟であり、自己を意識することが共同体を承認することだという意識がなりたっているということである」(Ⅵ、精神)

このように見て来ると、ヘーゲルにとってカテゴリーとは、主観と客観、個別と普遍を貫いて、それらを共通の概念で結びつけているものだとわかる。絶対精神が自己疎外して主観と客観、個別と普遍に分かれるが、それらは同じ絶対精神の現れに過ぎないから、徹頭徹尾同じものである。その同じものが概念という形を取ったものがカテゴリーなのだ。つまり、カテゴリーは主客と個普の対立を否定してそれらを統一する概念であり、絶対精神の様態なのだということになる。

こんなわけだから、アリストテレスやカントとは違って、ヘーゲルがカテゴリーの分類に熱心でないのにも理由があると知れる。分類が始まるところで、進化が終わる、進化のないところに、精神の働きは期待できない。ヘーゲルはそう考えていたようである。


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