知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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精神の物象化としての頭蓋骨:ヘーゲルと科学的思考


デカルト、パスカル、ライプニッツといえば西洋哲学史上に聳える偉大な哲学者たちであるが、彼らはそれ以上に偉大な自然科学者であり、数学的な思考を重んじた人たちだった。スピノザは自分の哲学体系を幾何学の形式を借りて展開したし、カントもまた自然科学者としてスタートした。近代の西洋思想史においては、哲学と数学・自然科学とが手を携えあいながら進んできたのである。ところがヘーゲルに至って、哲学は数学や力学的な思考と距離を置くようになった。というより、数学や力学を軽蔑するようになった。これをラッセルなどは、知的退化と捉えるわけだが、当のヘーゲルは、数学や力学は現象の一面を説明できるに過ぎないのであって、全面的に説明できるのは、自分の哲学だけだ、と思い込んでいたわけである。

ヘーゲルが「精神現象学」の中で、数学・自然科学的思考に言及するのは、まず「Ⅲ、力と科学的思考」の章だ。この章は、意識の概念的な認識をテーマにした部分だが、その典型が科学的思考とよばれるものであり、それは力学的な思考によって代表されるという意味で、この章全体が「力と科学的思考」と命名されるわけなのだ。

力学的な思考は法則を中心に展開する。法則とは、現象の背後にある力が表に現れる、その現れ方を説明する概念である。どんな現象にも必ず一定の法則があるはずであり、人間の科学的な認識は、この法則を明らかにするところに意義を持つ。世界は法則とその発現からなるのであり、法則によって説明できないことはないはずだ。そう考えるのが、科学的思考の特徴だ。しかし、果してそうなのか、とヘーゲルは問い直し、そうではあるまい、と答えるのである。

「法則は現象界を存在の場とはするが、その隅々にまで行き渡っているわけではなく、事情が違えば、まったく別の現実を相手にしなければならない。ということは、現象界には内面世界に対応するもののない側面が明確にあって、そのかぎりで、法則の枠をはみだすような自立性を備えている」(「精神現象学」Ⅲ、力と科学的思考、長谷川宏訳、以下同じ)

つまりヘーゲルは、この世界には法則によって説明できないものごともあるといっているわけだ。それが何なのかについては、この部分では言及していないが、たとえば宗教や絶対知がそれにあたるのだろう。いづれにせよ、世界のすべてを自然科学的な法則によって説明することなど到底できないし、ましてや単なる量を問題としてあつかう数学などは、この世界のほんの一部についての説明にすぎない。そうヘーゲルは考えるのである。

たしかに、ヘーゲルの言い分には一理あるかもしれない。宗教の問題が科学的思考によって説明できるとは思えないし、絶対知の対象が数量に還元されるわけではないかもしれない。しかしだからといって、ヘーゲルの言うように、数学や物理学の知識がつまらないものだ、ということにはならないだろう。数学や物理学の知識は、つまらないどころか、人類の発展の最大の原動力になってきたのであるから、それを軽視することは、蒙昧な態度といわれても仕方ないところだろう。

ヘーゲルは、世界には法則で説明できない部分があるばかりか、その法則にしてからが、たいした意味を持っているわけではないと、法則の意義を二重に否定するような言い方もしている。たとえば「万有引力」について、次のようにいっている。

「すべての法則を統一した『万有引力』は、法則のうちに存在するとされる法則の概念以外のいかなる内容も表現してはいない。そこにいわれているのは、万物はどれをとっても他のものとは違う、ということだけだ。それを手にした科学的思考は、現実の全体を表現する一般法則を見出したと思い込むが、実際に見出したものは法則の概念に過ぎないので、それをいうのに、現実の全体がどこまでも法則の支配下にある、と、まぎらわしい言い方をしているだけなのだ」(同上)

これではまるで、「万有引力」の法則が、殆ど無内容な概念で、法則と云う名の容れものにすぎないと言っているようなものだ。これは、数学的・自然科学的思考に対する、ヘーゲルの偏見と言ってもいいのではないか。

こういう偏見があるからだろう。自然科学について論じる時のヘーゲルは、殆ど荒唐無稽といっていいような、ナンセンスな議論をしているように見える。そのナンセンスな議論が、たとえば「精神現象学」においても、少なからぬ部分を占めているのだから、よほど忍耐力のある人でなければ、ヘーゲルの著作を通読する気になれないのも無理はない。

ヘーゲルのナンセンスな科学論議は、「Ⅴ、理性の確信と真理」の所でも繰り返される。ここでは「観察する理性」に高まった意識が、対象を科学的にとりあつかう際の一面性を批判するわけだが、その批判の中でも傑作なのは、自己意識と身体との関係を論じた骨相学批判の部分である。

観察する理性というのは、「物を物たらしめているのは物の意識にほかならぬこと」を理解している意識のことであって、「物とは自分以外のなにものでもない」ということがわかっている。したがって、この意識が自然界を対象とする時、自然とは自分自身がとっている自分の違う形である、ということになる。自然も自分自身も同じものの異なった現れなのだ。それをいいかえれば、内面である自分自身が外面化したものが物だ、ということになる。

ところで、自分自身の中でも最も自分自身らしいところ、それは意識である。この意識を内面とすれば、その物質的現れである外面はどんな形をとるだろうか、と観察する理性は問う。その結果、頭蓋骨こそが意識が外面化して物の形をとったものだ、ということになる。

そんな議論をヘーゲルは批判して、観察する理性がこんなことを考え付くのは、「骨が精神の外面と見做され、外面が現実のありさまだと考えられるからだ」が、「雨と周囲の状況が無関係なように、精神のこの性質と頭蓋のこのありかたとは観察者にとって無関係なのである」ときびしく断罪するのだ。

ヘーゲルがここでいいたいのは、対象も意識も絶対精神の疎外態であるかぎり、もともとは同じものが異なった現れ方をしているだけだということなのだろうが、それが個別的な意識には、自分自身が外面化したものが対象としての物というふうに見える、ということなのだろう。この外面化とは、意識が物の形をとることから、物象化といいかえてもいい。だからヘーゲルのここでの議論は物象化の批判でもあるわけなのだ。

しかし、批判しているわりには、ヘーゲルの骨相学へのこだわりは尋常なものではない。数行ですむようなところを、何ページもかけて延々と取り上げている。それは批判者の議論と云うより、マニアのつぶやきのように聞こえる。




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