知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルとキリスト教


「精神現象学」において、「宗教」は「絶対知」の直前に置かれている。このことは、二つの意味を持っていると考えられる。一つは、ヘーゲルが宗教を、精神がとる一つの形と考えていること、もう一つは、宗教が絶対知の直前に位置するに相応しい高度な精神の形と考えていること、この二つの意味あいを持っているということである。

宗教と、その尽きせぬ泉である神を、精神がとる一つの形だなどと考えた思想家は、ヘーゲル以前には一人もいなかった。精神とは、ほかならぬ我々人間のことを差すのであるから、神が精神のとる一つの形だということは、神と人間とは同じだ、というに等しい。そんなことを言えば、ヘーゲル以前のキリスト教社会にあっては、それは許しがたい言説であり、無神論だといって攻撃されたものである。ヘーゲル自身も、無神論者と言って攻撃されたことはいくらでもある。そのたびにヘーゲルは煙幕を張って、自分は敬虔なキリスト教徒だと、人々に弁明したものだった。

宗教は、精神のとる一つの形であるにとどまらず、精神のとりうる最高の形でもある。さればこそヘーゲルは、これを絶対知のすぐ手前に置いたわけなのである。本来なら、絶対知と一体化させてもよかったのである。だが敢えてそうしなかったのは、やはり世間の目を気にしたのだろうと思われる。絶対知とは、人間の知恵の最高のあり方をさすものであり、すぐれて人間的なものであるからして、それと宗教とをごちゃまぜにしたのでは、宗教を人間知のレベルまで引き下げることになり、またもや無神論の攻撃を招く恐れがある。そういうわけで、形式上宗教と絶対知とを分け、宗教を絶対知の手前に置くことで妥協したわけなのであろう。

こんなわけだからヘーゲルは、宗教とは人間の精神がとるところの究極的な形である、と本音では考える。宗教とは、人間にとっては、彼岸の世界のことであって、我々の知性では推し量る事の出来ぬ超越的世界にかかわることとするのが、伝統的な見方であったのだが、ヘーゲルはそうした見方をひっくり返してしまう。宗教というものは、なにも彼岸とか超越的な世界にかかわる事柄なのではなく、我々人間の精神がとるひとつの形なのであって、したがって、此岸の世界のことなのである。

だが、宗教の中でも、こういえるのはキリスト教だけだ、とヘーゲルは言う。宗教の中でも、ギリシャの芸術宗教や旧約の世界は、やはり彼岸とか超越的な世界にこだわっている。そのこだわりを脱して、宗教を完全に人間化したのは啓示宗教としてのキリスト教だけである。そうヘーゲルは考えるわけなのだ。そう考えることによって、啓示宗教としてのキリスト教が、人類の歴史にとってもつ決定的な重要性を強調するのである。

啓示とは、神が自身を人間であると示すことである。そうヘーゲルは捉える。神がキリストとなって人間の世界に現れる。それが最初の啓示である。そのキリストが死んだ後も、キリストの記憶は聖霊となって人間の精神の中で生き続ける。これが第二の啓示である。この二つの啓示を併せて、三位一体の説が生まれる。神が受肉してキリストとなり、そのキリストが聖霊となって人々の精神の中に生き続ける。聖霊と精神とは同じものなのだ。実際ドイツ語ではどちらも Geist と呼ばれているのである。

「神がこのように受肉して、本質的かつ直接的に自己意識を持つ人間の形をとる、ということが、絶対宗教の単純な内容である。受肉したとき、神は精神だと知られ、自分が精神であることを意識する・・・神の存在は啓示される。啓示というのは、いうまでもなく、神が何であるかが知られるということである。神が精神だと知られることは、神が自己意識を本質とする存在だと知られるということである」(「精神現象学」Ⅶ、宗教、長谷川宏訳、以下同じ)

つまりヘーゲルにとって、「神の本性と人間の本性は同じもの」なのである。

啓示は神の側から人間に対しての働きかけであるが、人間の側も、ただ単に神からの働きを受け止めるだけの受動的な存在にはとどまらない。人間は人間で、「自己意識が自己を外化して物としての存在ないし共同体の自己になるという側面」を併せ有している。つまり人間の方でも、神の存在を必然のものとして要請するような動きが内在しているのだ。したがって啓示宗教とは、神からの働きかけと、人間の要請とが一致したところに生まれるのである。

こういうと、神そのものは人間とは独立した彼岸の存在だという風に、伝統的な宗教観に舞い戻ってしまうようだが、ヘーゲルにとってはそうはならない。神の本性は人間の本性と異なったものではない、のだから、神はもともと人間のうちに内在しているのである。それ故、神が受肉して人間になったというのも、人間が自己を外化して神となったというのも、変わりはないのである。

では、人間が自己を外化して神となる、とはどういうことなのか。外化とは内面が外に現れて物の形をとる事である。それをここの文脈に即していうと、精神が外化して神というものの形をとる、ということになる。ということは、外化とは物象化ということだ。人間は自分自身の内面を、神という外面的な形に物象化したわけだ。

この辺の理屈は、あのマルクスが注目して、自分の物象化論の議論に応用したところだ。人間は自分自身を物象化して神と云うものを作り出すが、作り出したあとでは、その作り物によって支配される。そういって、人間の浅墓さをあざ笑ったことは、良く知られているとおりだ。

また、マルクスとほぼ同時期にヘーゲル批判を行ったキルケゴールは、違った角度からヘーゲルを攻撃した。ヘーゲルは神というものをすっかり人間化してしまったが、それは本当の神ではない、ただの張り子の神、つまり単なる作り物だ。そんな作り物の立場に神を陥れたことは、自分のような敬虔なキリスト者には到底許すことが出来ない。神は、人間が作ったのものではなく、人間を作ったかたなのだ。それ故、神は我々人間の創造主である。その創造主をさしおいて、自分自身が創造主の立場に居座ろうとする。それがヘーゲルの宗教論の本質だ。ヘーゲルの宗教論は正真正銘の無神論だ。そういってキルケゴールはヘーゲルの宗教論を激しく攻撃するわけなのである。




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