知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルとギリシャ悲劇


ヘーゲル「精神現象学」は、意識、自己意識、理性と進んできた後、精神の章へと移るが、ここで叙述の仕方ががらりとかわることに、読者はとまどうかもしれない。というのも、それまでは個人の意識を主語として叙述されてきたのが、この章以降では、主語が共同体へと切り替わるからだ。

意識、自己意識、理性の部分は、あくまでも人間の認識の流れを個人の意識に即して論じたものだ。それは、もっとも原初的な認識作用である感覚的な確信から始まって、次第に高度な認識へと進んでいったわけだが、その流れの中でも、共同体的なものは見え隠れしていた。ヘーゲルにとって、人間の認識と云うのは、周囲から孤絶した純粋な個人の意識のみを舞台としたものではなく、共同体との交互作用を通じて働くものだった。人間は社会的な生き物なのだから、共同体の規範を自分に内面化し、それを媒介として対象的な世界を認識していく、そうヘーゲルは考えているわけである。

この共同体の規範を、それ自体として取りあげたもの、それがヘーゲルの云う「精神」なのだと、考えてよいだろう。人間はこの精神を内面化することを通じて、社会的な存在となり、社会の一員として、世界についての見識を高めていく。人間とは、優れて社会的な生き物なのであり、その認識の作用の仕方も、社会的な規範を媒介にして進んでいくものなのだ。

これを精神の立場から言い換えると、個人とは精神が自己疎外して個別化したものだということになる。だから基本的には、個人と共同体の精神とは一致しなければならない。ところが現実には、共同体の規範と個人の自意識とは絶えず対立と融合とを繰り返してきた。人間の歴史とは、この、共同体と個人との関わり合いの変化が織り成す転変の歴史なのだ。

というわけで、ヘーゲルにとって、精神現象学の精神の章で展開していているものは、個人と共同体との関わり合いの歴史を、共同体の立場から述べたものなのである。(それも基本的には、リニアな進化の歴史である)

このあたりのことを、ヘーゲルは次のように言っている。

「本来の精神とは現実の共同体となった精神のことである。

 精神がありのままの真理としてあらわれたものが、一民族の共同体生活である。そこには、まとまりのある一世界がなりたっている。精神はありのままの真理を意識化し、美しい共同体生活を破棄し、さまざまな形態を経ておのれを知るところまで進まねばならない。ここに言う形態が以前の形態と違うのは、それが社会の現実に根をおろした実在の精神であり、たんなる意識の形態を超えた世界の形態だからである」(「精神現象学」Ⅵ、精神、長谷川宏訳、以下同じ)

人間は、自分自身の歩みを、個別的な認識の高まりとしての個体発生的な見地から眺めるだけでなく、類的存在としての形態発生的な見地からも眺める必要がある、ということなのだろう。

その類的存在としての共同体の最初のモデルはギリシャである。ギリシャにおいては、共同体と個人とは無媒介に統一された状態にある。その統一が壊れて個人が正面に出てくると、そこにローマの法治的な共同体が登場する。しかしローマの個人主義も乗り越えられる。個人は再び共同体と統一され、そこに一段と高度の共同体が生まれる。その共同体にあっては、個人は自分が共同体と一致していることを意識的に自覚するようになる。その自覚の深まりこそが、西洋社会の近代史を動かしてきた原動力である。

こんなわけで、精神の章は、一種の歴史哲学になっている。それは、人類の進歩を振り返る回顧的な意識なのだ。

ところで、ギリシャ的な共同体について、ヘーゲルはギリシャ神話を材料にして展開してみせる。ギリシャ文化は、ヘーゲルにとって、若い頃からの憧れも対象だった。だから、ギリシャについて語る時のヘーゲルは、非常に雄弁で、しかも流暢な語りかたになる。

そのヘーゲルが、この章で持ち出してくるのは、ソフォクレスの悲劇「アンチゴネー」だ。

ヘーゲルによれば、ギリシャは個人と共同体とが結びついていることを本質としているから、人倫的世界と呼ぶことができる。人倫とは共同体の掟のことであり、それが支配しているから人倫的世界というわけである。

この人倫的世界にあっても、普遍と個別の区別はないわけではない。ただそれが、日常では強く認識されることがないだけである。しかし、ときにこの両者がぶつかり合うことがある。そこに悲劇が生まれる。その悲劇のひとつの典型がアンチゴネーをめぐる悲劇なのである。

さて、ギリシャ的人倫の世界にあっては、普遍は「人間の掟」とよばれる国家共同体の掟の形をとる一方、個別の方は「神々の掟」と呼ばれる家族の掟の形をとる。人間の掟を担うのは男の役割であり、家族の掟を担うのは女の役割である。人間の掟は国家全体の存続にかかわる公のものであるのに対して、家族の掟は自然な愛情を基礎とする私的なものである。

人間の掟は共同体の存続を確固とすることを通じて家族の生活が安定的に営めるように補償する。だから、共同体の存続にかかわり合うような事態においては、成員に命をかけて戦うことを求める。家族とは、一面では共同体の存続のために立派な兵士を育てることに基本的な意義をもっているものなのだ。そして、家族の一員が倒れて死んだときには、その遺体を弔うことを役割とする。家族に固有な役割とは、死んだ家族員を埋葬することなのだ。

人間の掟と家族の掟は、普段は相互に支え合って、対立することはない。しかし場合によっては、例外的に対立する事態も起こりうる。アンチゴネーの身に起きた悲劇もそうした例外的な事態の一つだったわけである。

テーバイ王オイディプスには二人の息子と二人の娘があった。二人の息子は、どちらが王になるかをめぐって戦ったが、弟が勝って兄(ポリュネイケス)は国外に追放された。その後、兄はアルゴスの軍勢とともにテーバイに攻めて来るが、兄弟共に戦いで死んでしまう。そこで妹のアンチゴネーが、二人の兄をともに埋葬しようとするのだが、王位に就いた叔父のクレオンが、ポリュネイケスは反逆者なのだから、埋葬はまかりならぬと、アンチゴネーを断罪する。断罪されたアンチゴネーは自殺し、アンチゴネーの許嫁であったクレオンの息子ハイモンも自殺してしまう。

この悲劇は、共同体の掟である人間の掟と、家族の掟である神の掟とが、するどく対立する様子を描いている。クレオンからすれば、ポリュネイケスは共同体への反逆者であり、それを手厚く埋葬するなどもっての外である。一方、アンチゴネーにとっては、家族の一員を埋葬することは、神の掟に対する神聖な義務と云うことになる。この対立においては、結局人間の掟が神の掟に優先するということになるが、しかしそれによって、共同体も深く傷つかぬわけにはいかない。その辺の事情を、ヘーゲルは次のように書いている。

「弱く日陰にあるものの掟たる神の掟は、さしあたり、力ある白日の掟に服従するほかはない。地上の権力ではなく、地下の権力なのだから。しかし、人間の内面世界からその名誉と権力を奪い取った現実の権力は、それによって自分の本体を食い破っている。公然たる共同体精神は、その力の根を地下の世界に持つし、自分を確信する自身に満ちた民族精神は、万人を一つに結びつける誓いの真実を、無意識で無言の地下の共同体~忘却の河~のうちにしか持たない。かくて、公然たる共同体精神の実現は、目指すところとは正反対の結末を迎え、最高の正義が最高の不正義であり、自分の勝利がむしろ自身の敗北であることが経験される」

こうして、この矛盾のなかから次の時代へと精神を進めていく原動力が生まれてくるというわけだが、この辺のヘーゲルの叙述には力がこもっており、まるで読者自身も悲劇作品を読んでいるような感じにさせられるところである。




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