知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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存在への問い:ハイデガー「存在と時間」を読む


「存在と時間」の序説の中でハイデガーは、この著作の目的について簡潔に言及している。それを一言で言い表わせば、存在への問い、ということになる。何故存在への問いなのか。それについてハイデガーは、存在がその重要性にかかわらず、忘れられているからだ、と言う。それではいけない、そうハイデガーは考えたのであろう。忘れられていたものを思い起こすためにも、その忘れられていた当のもの、すなわち存在への問いを発しなければならない。そうすることで、「形而上学」を再び肯定することが、「現代の進歩のしるし」なのだと言うのである。ここでハイデガーが「形而上学」と言っているのは、ほぼ「哲学」と同義の言葉だと、とりあえず捉えておいてよい。

「存在への問い」という目標を立てたあとで当面問題となるのは、そもそも「問いには何が属するのか」が説明されねばならないことだ、とハイデガーは言う。ところで、「問うことはすべて、探し求めることです。捜し求めることはすべて、探し求められるものから、予め方向を決定されています」。つまり、何かについての問いを立てるということは、それを立てた時点ですでに、問われている当のものから、方向を決定されているというわけである。この場合、問われているものは「存在」なのであるから、当のその「存在」が、問いに対して方向性を指示するということになる。

ハイデガー流のもってまわった言い回しがなされているので、判りにくいところがあるが、簡単に言うとこういうことになる。我々が何かについて問いを発するとき、むやみやたらにそうしているのではなく、問われている当の対象について、すでに何らかの了解をしている。その了解を手がかりにして、問われている当のものの意味を探求し、概念的に明らかにしてゆく、というのが我々の通常のあり方である。それゆえ、ここで問題になっている「存在」ということについても、我々は何らかの了解を持っているのである。それをハイデガーは「存在了解」と名づける。これは「いいかげんな、あいまいな存在了解」というべきものだが、一つの事実として我々が持っているものであって、我々はそれを手がかりにして、存在というものについての高度な認識に向かって進むように出来ているものなのである。

デカルト以来の伝統的な哲学にあっては、ある概念について探求するためには、まずその概念を厳密に基礎付けることが求められたが、そしてその基礎付けは人間の認識作用の場に求められたわけだが、ハイデガーは、そうしたやり方ではなく、存在了解という一つの(漠然とした)事実を手がかりにして探求を出発させようとする。まず事実があって、そこから意味が生まれてくる、というわけである。ハイデガーにとって「存在」とは、まず我々が了解している事実にその足場を持っているのである。

我々の存在了解のうちでとりあえず浮かび上がってくるのは、諸々の存在するものである。カントならそれを現象(あるいはその背後にある物自体)と呼ぶところだが、ハイデガーは「存在するもの(存在者)」と呼ぶわけだ。ところでいま問題となっているのは、個々の存在するものではなく、そうした存在するものの存在であった。存在とは存在するものの存在なのである。

ここでハイデガーは興味ある議論を展開する。存在的(オンティッシュ)と存在論的(オントローギッシュ)の区別に関するものである。この議論は、存在するものと存在の区別に対応している。個々の存在するものについての概念規定をハイデガーは「存在的」と呼び、「存在」そのものについての概念規定を「存在論的」というのである。この一対の概念は、この後様々なところで繰り返し出てくるので、その意味をよく押さえておく必要がある。彼が「存在的」というときには、個々の存在者の属性にかかわることを言っているのであり、それに対して存在の本質にかかわる議論をしているときには、ハイデガーはかならず「存在論的」という言葉を使う。

存在への問いから始まる存在についての議論は、先程言ったように「存在了解」を基盤に繰り広げられる。「存在了解」は、我々人間が事実的なアプリオリとして備えているものである。事実的というのは、それが我々が人間として生きていることにすでに事実として含まれているという意味であり、アプリオリというのは、我々の知的営みにとっての先験的な与件であるという意味だ。この「存在了解」が存在への問いへの手がかりとなるのは、我々自身が一つの存在するものであるからにほかならない。存在するものとしての我々の事実的なアプリオリである「存在了解」を掘り下げれば、そこから自ずから存在の意味が明らかになってくるに違いない、ハイデガーはそう考えているわけである。

我々人間はしかし、存在するもののなかでも特別の存在者である。この特別の存在するものをハイデガーは現存在と名づける。要するに人間のことである。だから人間存在という言葉でもよいわけだが、ハイデガーはあえて自分自身の造語である「現存在(ダーザイン)」という言葉を使う。存在論的に見て、人間は事実的に存在するものとして、そこに投げ出されてあるのだ、というようなニュアンスを、この言葉で表現したいのだろう。

存在するものの存在に対応して、現存在の存在をハイデガーは「実存(エグシステンツ)」と呼ぶ。これは事実存在を意味する「エグシステンシア」をひねった言葉だと思う。エグシステンシアはエッセンシアと対立する概念で、本質に対して現実性を表す言葉だが、この言葉には中世以来の哲学の垢が付きまとっているので、ハイデガーがそれを避けて、エグシステンツという言葉を作ったのだろうと思う。要するに、人間(現存在)の存在というほどの意味である。

存在的と存在論的の区別に対応して、ハイデガーは実存的と実存論的の区別も設けている。存在的が存在するものにかかわる概念であることに対応して、実存的は存在するものとしての人間(現存在)にかかわること、また、存在論的が存在するものの存在にかかわる概念であることに対応して、実存論的は現存在の実存、すなわち人間の存在にかかわることに関係づけられる。

さて、人間存在としての現存在が概念的に規定されたあとは、この現存在の分析を通じて存在の意味を明らかにしようとする試みが行われることとなる。何故なら、「現存在は、ただたんに他の存在するものの間にだけ現われるような、存在者ではないのです・・・この存在するものにとって独自のことは、その存在とともに、またその存在を通じて、自分みずからに、存在が開き示されている」からである。このことをハイデガーは、「現存在の存在的な優越さは、それが存在論的であるということに在るのです」と言っているが、その意味は、現存在が存在者として特別なものでありうるのは、それが存在の意味を考える上での手がかりを与えるからだということである。存在論的とは、そういうことなのである。

こんなわけでハイデガーの存在論は、現存在の実存分析から始まる。それをハイデガーは現存在の予備的基礎分析と名づけるわけである。ハイデガーの当初の全体構想によれば、現存在の予備的基礎分析を通じて存在の意味を明らかにし、そうして得られた存在の概念をもとにして、西洋哲学の歴史を解体・再構築するということになっていたようである。もっとも、その意図は放棄されてしまったわけであるが。





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