知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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世界内存在:ハイデガー「存在と時間」を読む


世界内存在は、現存在の根本的な存在構造として、極めて重要な位置づけがされている概念だが、その重要性にかかわらず、ハイデガーの取り扱い方はあっさりしている。「存在と時間」のなかでこの言葉が始めて出てくるのは、序説の第一章であるが、そこでは「現存在には、本質的に、世界のなかに在ること、が属しています」と言及されているだけで、「世界内存在」についての詳しい説明はない。「世界内存在」が主題的に論じられる第一篇第二章では、冒頭に近い部分で、「現存在のこのような存在諸規定は、わたしたちが世界・内・存在(世・に・あること)と呼んでいる存在構えを根底にして、アプリオリに見られかつ理解されねばならないのです」と言うのであるが、ここでも世界内存在という言葉で何を意味しているのか、わかりやすい説明はない。

ハイデガーが世界内存在という言葉を使って説明していることといえば、現存在というものはいついかなるときでも現存在であるという事実性を前提としているが、その事実性という概念には、「『世界内部的に』存在するものの<世界・に・あること>」が含まれている、といった、堂々巡りを思わせるようなことだ。要するに、現存在というのは、世界内存在として捉えられるべきだが、その世界内存在とは現存在の根本的な存在構造なのだ、というわけである。これでは、なにがなんだかわからない。パン屋にいってうどんを売られているようなものだ。

世界内存在をめぐるハイデガーのこうした取り扱い方については、木田元も違和感を表明している。彼はその違和感の由来をたどっているうちに、ハイデガーがこの概念をそっけなく持ち出したのには、ある歴史的な背景が働いたのではないかと推測した。ハイデガーが「存在と時間」を書いたときには、世界についてのある程度共通した了解のようなものがあって、世界内存在という言葉を使う場合には、その了解をあてにして、厳密な概念規定をしないでも理解してもらえるだろうとハイデガーは考えた。だから、こんな扱いをしたのではないか、というわけなのである。

世界内存在との関連で木田が言及しているのは、フッサールの「自然的世界概念」とか、ユクスキュルの「環境世界概念」である。とりわけユクスキュルの概念がハイデガーの世界概念に大きな影響を与えたのだろうと木田は推測している。ユクスキュルの環境世界概念とは、すべての動物にはそれ固有の環境世界があって、動物はそれに繋縛されている。だから環境が激変すると動物は生きて行けない。昆虫には昆虫特有の環境世界があり、馬には馬特有の環境世界がある。馬は人間とは違った環境に生きているのだから、人間とは違ったふうに世界が見える。人間は、基本的に目の前のものしか見えないが、馬はほぼ三百六十度の視界を持つ。だから競走馬は、自分の背後にも気をくばりながら走ることができるのである。もしも人間の目が馬のように、顔の横、たとえばこめかみのあたりについていたら、世界の見え方はいまとは全く違うだろう。人間の視野はドラスティックに広がるだろう。

もっともハイデガー自身は、ユクスキュルについて一言も言及していない。そこは自分に都合の悪い種明かしはしないというハイデガー一流の配慮が働いたのであろう。ハイデガーが「存在と時間」のなかで持ち出すのは、ユクスキュルに近い考え方を持っていたベーアであり、しかも否定的な文脈のなかでのことである。そこでハイデガーはこう言うのだ。「『ひとつの環境を持つ』という、存在的にはありふれた言い方も、存在論的には問題です。この問題を解くことは、現存在の存在を、予め存在論的に十分に規定する以外のどこに求められるでしょうか。もし生物学において~とりわけK・E・フォン・ベーア以来再び~このような存在構えが使用されるならば、ひとはその哲学的使用からして、『生物学主義』と結論付けてはなりません。なぜならば、生物学もまた、この構造を実証科学として、決して見出すこともできないから~むしろ生物学はこの構造を前提し、つねにこれを使用しなければならないのです」

ハイデガーが言いたいことを代って忖度して言うと、次のようになるだろう。現存在は事実として存在している、そしてその事実の中には、「世界のなか・に・ある」こと、つまり世界内存在ということが含まれている。現存在つまり人間は、かれ固有の環境としての世界を伴いながら、この世のなかに登場した、と言いたいのだろう。

世界内存在を現存在の根本構造、つまり現存在のあり方そのものとして捉えると、現存在と世界の関係は、主観と客観との対立というようなものではなくなる。そこでハイデガーは、主観と客観の対立についての、伝統的な考え方の批判に移っていく。伝統的な考え方にあっては、認識の場を通じて主観と客観とが出会う。認識の主体である主観が、認識の対象である客観を認識する、というのがその基本的な構図である。この考え方だと、認識の主体である現存在と、認識の対象である世界とは、いちおう別のものとして前提され、それが認識の場においてはじめて出会うという構図になる。その構図だと、現存在は(客観としての)世界の外側にいるということになる。だがそれは間違った見方だ、というのがハイデガーの批判の眼目である。

現存在と世界の関係は、そういうよそよそしいものではない。ハイデガーは言う。「何々の方に体を向けて、そして捉えるということにおいて、現存在は、自分がさしあたり閉じ込められているところの、自分の内部領域を越えて、はじめて外に出てゆくのではなくて、現存在の第一義的な在り方からいえば、それは、つねにすでに『外部の』、そのつどすでに発見された世界という出合う{仕方の}存在するもののもとにあるのです・・・現存在自身が、認識するところの世界・内・存在なのです」。つまり現存在と世界とは根源的に等価のものなのだというわけであろう。

ところでハイデガーはこの章(第一篇第二章)のなかで、世界内存在は「実存カテゴリー」だとも言っている。「実存カテゴリー」とは現存在の存在にかかわる根本的なカテゴリーのことで、これは、存在者の存在の仕方にかかわる規定である、通常の論理学にいうカテゴリーに対応したものだ。目の前存在としての存在者の存在の様相が論理学にいうカテゴリーとなるわけだが、そのカテゴリーは現存在にはそのまま適用されない。何故なら、そういった論理的なカテゴリーは目の前存在としての存在者の様相にかかわるものであって、そもそも目の前存在者ではなく、生きられる存在としての現存在については、適用できないものだからだ。それを適用すれば、現存在についての多くの誤解が生じる。上に述べた主観と客観との対立で現存在と世界との関係を捉えるのもそうした誤解のひとつだ。現存在の実存は、通常の目の前存在としての存在者の存在とは、基本的に異なったものなのだ、というのがハイデガーのこだわりなのである。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
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