知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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共同現存在:ハイデガー「存在と時間」


他者の問題は、デカルト以来の西洋哲学史において、最大のアポリアだった。ハイデガーはそのアポリアをいともあっさりと解消してしまう。他者は手の届かない対象のようなものなどではなく、世界内存在としての現存在の存在了解にすでに含まれていると言うのである。ハイデガーは言う、「世界を持たないような主観が、さしあたり『ある』のではなく、したがってまた決して与えられているのでもない、ということを示しました。こうして結局は同様に、他人なしの孤立した自我はさしあたり与えられていないのです」。要するに、世界内存在にとっての世界とは、そもそも他人を含んだものなのである。だから我々にとって必要なことは、すでにそこに含まれている他人というものの存在構造を明らかにすることなのだ。他人は探すべきものではなく、すでに出会われていて、その存在のあり方についての解明を待っているものなのである。

この他人のことをハイデガーは「共同現存在」と呼ぶ。まず他人もまた、現存在である。他人という「このような存在するものは目の前にあるのでもなければ、手もとにあるのでもなく、開き与えている現存在そのものと同じように、つまり~それもまた現に存在するのです」。その現存在である他人は、現存在としてのわたし自身と深く結びついている。「世界はすでにいつも、わたしが他人と分かち持っているところの世界です。現存在の世界は、共同世界です。内・存在とは、他人たちとの共同存在です。他人たちの内世界的な自体存在とは、共同現存在です」

こうして、他者もわたしも世界を共有する共同現存在ということになり、その他者とわたしがとりむすぶ関係も共同現存在という言葉で呼ばれる。共同現存在という言葉は、わたしとか他者とかいった現存在としての人間を指すとともに、その人間の間の関係をも現しているわけである。この言葉で示されている究極的な意味は、人間というものは、そもそも社会的な存在なのであって、他者を抜きにしては語れない、ということである。ハイデガーの強い協同体志向は、このあたりに根ざしているのだと思う。

道具という存在性格の資格で手もとにある存在者に対しては、現存在である人間は配慮を通じてかかわるが、現存在である他者に対しては別の形のかかわり方をする。この場合、「共同存在としての現存在がかかわっている当の存在するものは、手元にある道具というあり方をもっているのではなくて、かれみずから現存在です。このような存在するものは、{気を配られ}配慮されるのではなく、{きづかい世話する}顧慮のうちにあるのです」。配慮と顧慮という現存在の世界へのかかわり方は、両方あわせて「関心」という概念に統一され、その関心こそが現存在の本質構造だとされるようになる。

配慮の対象である手もと存在としての道具にしろ、顧慮されるものとしての他人にしろ、それらは現存在の存在了解のなかにすでに含まれている。その了解の中で「世界は内世界的に出会う存在するものとして、たんに手もとのものを開き与えるばかりでなく、現存在をも、つまり共同現存在における他人などをも、開き与えるのです」

重要なのは、「このような了解作用は了解作用一般と同様に、認識作用から生じた知識ではなくて、認識や知識をはじめて可能にするところの根源的な実存論的なあり方です」ということである。つまり人間は、認識作用を通じて存在了解に達するのではなく、その逆に、存在了解をもとに認識作用を行う、ということが重要なのである。同じような意味で、他者への感情移入も、共同存在の了解があるからこそ成立するのであって、感情移入が他者を構成するわけではない。

ハイデガーがこのことを強調するのは、フッサールを含めて従来の他者論が、他者への感情移入を議論の出発点にしていたことへの批判のつもりなのだろうと思う。フッサールはハイデガーに先駆けて他者の問題に踏み込んだわけだが、その議論は、わたしの孤立した意識、つまりデカルト的な意識を出発点としていたために、他者はそのわたしの延長上あるいは外部に捉えられることとなった。わたしがあるからこそ、他者もまたありうる、という立論になっている。この立論をささえるのは、わたしによる他者への感情移入くらいしかない。フッサールの言い方は非常にソフィスティケートされており、素朴な感情移入論は感じさせないが、基本的な構図はやはりわたしによる他者の推測であり、その根っこには他者への感情移入があるわけである。それをハイデガーは厳しく批判するつもりで、そもそも他者についての存在了解が現存在にアプリオリにあるからこそ、他者への感情移入も成り立つのだと強調するわけである。

もっともフッサールは、感情移入だけを根拠にして他者を論じているわけではない。後期のフッサールは、人間相互の関係を間主観性という概念で説明するようになるが、その要諦は、わたしの認識が他者によってたえず検証され、批判されるということにあった。つまり他者はわたしの批判者として現われるわけである。その他者の批判にわたしは確実な抵抗を感じ、場合によっては自分の認識を改めるというプロセスを踏みながら、自分の認識を高めてゆく。つまり間主観性を論じるフッサールにあっては、他者の問題はわたしの認識作用の相関者として位置づけられているわけである。だから、他者はかならずしもわたしにとっての全くの外部ではない、ということになる。

ハイデガーは、この共同現存在から「ひと」という概念を取り出す。「ひと」とは、現存在の日常性を表わした言葉だ。現存在は、それぞれが個性を持った存在であって、相互に差異があるのが当然であるが、その差異がならされ、すべての現存在が平均化されると、そこに「ひと」としてのあり方が成立する。だから「ひと」とは、個々の人間の平均値であるとともに、個々の人間が世のなかの動きに飲まれるようにして生きているようなあり方をさしてもいる。このようなあり方は、キルケゴールの水平化の議論を思わせる。ハイデガー自身、「ひと」における平均化をキルケゴールの「水平化」からヒントを得て思いついたのだと思う。キルケゴールの場合には、「水平化」には否定的なだけで、人間は水平化された大衆の一員としてではなく、かけがいのない一人の人間として神と向き合うべきだ、それこそ人間の本来のあり方だと主張したわけだが、ハイデガーは「ひと」をそう否定的のみには見ていない。

人間は孤立しては生きてはいけない。かならず協同体の一員として、あるいは社会の一員として、他人たちとのかかわりの中で生きるしかない。その場合、他人たちとのかかわりをスムーズにさせるのが、他人たちすべての現存在が平均化された「ひと」としてのあり方なのである。だから「ひと」は、現存在としての人間がとりあえずたよりにする生き方なのである。「<ひと>は、ひとつの実存カテゴリーであり、根源的現象として、現存在の積極的な構えに属しています・・・まずもって事実的な現存在は、平均的に発見された共同世界をなしています。まずもって『わたし』は、わたし自身の自己という意味において『わたし』ではなくて、<ひと>というあり方での他人で『ある』のです」

以上、他者をめぐるハイデガーの議論は、他者を現存在の存在了解というアプリオリに基づかせることで、伝統的な認識論のくびきから脱する。そしてその延長で、現存在を共同現存在と規定することで、人間は本来社会的な生き物だと断定する。そしてその延長で、個々人と協同体との予定調和的でかつ深い関係を強調するようになる。その時に至ってはじめてハイデガーは、人間にとって本来的な生き方は、協同体の一員としてふるまうことだと言い始めるわけである。





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