知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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実在性と真理:ハイデガー「存在と時間」


真理をめぐる伝統的な議論は、真理を人間の判断の作用と関連付けて論じるものだった。人間の判断の作用とは、人間の主観の働きである認識作用が、客観的な対象についてなされるときにおきるものであるが、その場合に主観的な判断が客観的実在と一致することが真理だとされた。この考え方は、一方に意識という主観的なものを置き、他方にその対象としての客観的な実在を置いて、その両者を対立させることを前提としていた。しかしこれは転倒した考え方だとハイデガーは主張する。

ハイデガーによれば、一方に人間の主観的な意識を定立し、それに対して客観的実在を対立させるやり方は、人間を、とりもなおさず、考える存在として捉えるという偏見にもとづいたものだということになる。人間というものは、デカルトの言うような考えることを本質とするものではない。人間が考えるということはたしかなことであるが、しかしデカルトが言うように、われ思う故にわれあり、なのではない。そうではなくて、われあり、ゆえにわれ思う、なのである。それをデカルトのように考えることは、事態を転倒するものだ。ところで、客観的実在という代物は、この転倒した考え方にもとづいたものなのである。どうしてそう言えるのか。

世界・内・存在としての現存在が、この世界のうちで出会うさまざまなものやことがらは、単に意識の対象としてあるのではない。さまざまなものは、単なる意識の対象としてではなく、道具連関のなかにあって配慮されるべきもの、手もと存在として手で触れられるべきものとしてあるのだし、他人たちもまた、単なる意識の対象としてではなく、共同現存在として顧慮されるべきものとしてある。配慮と言い、顧慮と言い、それらは現存在の根本的なあり方である関心の現われである。関心がかかわるところのものは、単なる認識の対象などではない。それらは現存在とその根源を等しくするものなのである。つまり現存在は、それらと根源を同じくしてこの世界のうちに投げ出されているわけである。

それらがあたかも客観的な実在と見えてくるのは、それらが目の前存在として、知性的な認識の対象となったときである。だがそうした様相は、対象の派生的・二次的なあり方なのである。その派生的・二次的なあり方を、そもそも本来のあり方のように考えるから、転倒というわけである。こうした見方は、普通の存在するものばかりでなく、現存在としての他人にも適用される。そうなると、「現存在もまた他の存在するもののように、実在的に目のまえ{存在的}にあります。こうしておよそ存在するということは、実在性の意味をもつのです。したがって実在性という概念は、存在論的な問題提起において、独特な優位をもっています。この優位は、現存在の純正な実存論的分析論へ向かう道をふさぐばかりか、さらに内世界的にごく身近な手もとのものの存在への視線すらもすでにさえぎっているのです。この優位はついに、およそ存在問題の提起をも、間違った方向に追い込みます。そのほかの存在諸様態は、実在性への考慮から、消極的に欠如的に規定されるのです」

この間違った方向が極まった例としてハイデガーは、物理的なものと心理的なものとをふたつながら目の前存在としてとらえたうえで、その目の前存在としての対象の実在性について議論するやり方をあげている。この議論においては、人間の認識は外在的な対象である実在を正しく捉えることができるかが問題となる。というのも、真理というものが、主観と客観との一致ということにされ、したがって意識が実在を捉えることが可能かどうかが問題となるからだ。この議論の典型は、物自体をめぐるカントの議論であって、カントは、物自体はわれわれ人間には到達することができない、つまり不可知なものだとしたわけだが、それこそ転倒した問題意識がもたらしたナンセンスだ、とハイデガーは主張するのである。

カントのこうした議論についてハイデガーは次のように言って批判する。「正当であろうと正当でなかろうと、『外界』の実在性を信ずること、十分であろうと不十分であろうと、その実在性を証明すること、{心に}はっきりしていようともしなかろうとも、その実在性を前提とすること、このような試みは、それ自身の独自の地盤を完全に見通すことに力が足りずに、ひとつの主観を、それは結局は世界というものをまず自分のために確保しなければならないような、さしあたり無世界的であるか、ないしは自分の世界に確信のないひとつの主観を、前提しているのです」

真理が、主観が外部の実在と一致することでないとしたら、では真理とは何なのか。

このことについてのハイデガーの説明は、いささか歯切れが悪い。どうも言葉の綾でごまかそうとしているようにも映る。ハイデガーは、「陳述」という言葉を取り出して、真理を説明するのだが、そのわけは、陳述には判断だけではなく、存在に関する現存在の関り方が含まれていると言って、その存在への現存在のかかわりの中から真理が浮かび上がってくる、というような言い方をしているのである。とりあえずハイデガーは言う、「陳述の働きは、存在する事物そのものへの存在の働きです・・・陳述において意味されていたものは、存在するもの自身で在るということ以外の何ものでもないのです・・・存在するものは、かれがあるとおりに陳述のなかで提示され、発見されるそのとおりに、自己同一性において、存在しているのです」

こう言った上でハイデガーは、「陳述が真で在るとは、陳述が存在するものを、かれ自身において発見する、ということです」と主張する。言い換えれば真理とは、「存在するものを~隠れていることから取り出して~その隠れていないこと(見出されてあること)において見せること」なのである。これをハイデガーは存在の「開示」と言っている。真理とは、存在が自己を開示することだ、というのがハイデガーのとりあえずの定義であるわけだ。

存在の開示という点では、現存在もまた自己自身を開示する。そこから、「現存在は本質的にはかれの開示性であって、開示されたものとして開示し発見するかぎり、現存在は本質的に『真』であるのです」という主張が出てくる。しかしこの主張はすぐに、真理は現存在を前提とするという主張に結びつく。なぜなら、真理とは陳述のうちで明らかにされるものであるが、その陳述とは現存在に固有の働きだからだ。現存がなければ陳述もない、陳述がなければ真理も現れ得ないのである。「現存在がもともと存在しなかった以前と現存在がおよそもはや存在しないであろう以後には、どんな真理もなかったし、またないでしょう。なぜなら真理は、開示性、発見されてあることとして、その場合存在することができないからです」というわけである。ハイデガーにあって存在と真理とは、根源を同じくしているのである。

真理についてのこうしたハイデガーの主張は、西洋の哲学史上きわめて斬新な発想のようにも思える。しかし、真理について伝統的な考え方に挑戦した例はハイデガー以前にもあった。ヘーゲルとキルケゴールだ。ヘーゲルは、「真理は全体性にあり」と言った。真理というものは、対象が意識の前に現われるその瞬間に真理として判断されるものではなく、絶えず生成変化するものとしての対象の、その生成変化のプロセス全体のなかからおのずから浮かびあがってくるものだ、というのがヘーゲルのいわゆる弁証法的な真理の見方である。これもまた、真理を存在としての対象の側の現われ方、ハイデガーの言葉で言えば「開示」に根ざしているという点では、ハイデガーの真理観と似たところがある、と言えなくもない。

一方キルケゴールは、「真理は主体性にあり」と言った、キルケゴールのいう主体性とは、人間が個別的な存在として神に直面するその姿勢のことを言う。人間にとって本来的な生き方とは、ひとりの個別者として神と直接向き合うことだというのがキルケゴールの基本的な思想であるから、キルケゴールにとっての真理とは、単に認識の問題ではなく、生き方そのものの問題だったわけである。その点では、現存在が自分の本来的な姿を開示するところに真理を見ているハイデガーと非常に似たところがある。というより、ハイデガーの真理論は、キルケゴールの真理についての見方に強い影響を受けながら生まれたのだろうと推測されるのである。





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