知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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時間性と日常性:ハイデガー「存在と時間」


「存在と時間」第二編第三章で、現存在の時間性を抽出したハイデガーは、続く第四章において、その時間性についてさらに詳細に分析する。前の章での議論が、死への存在としての現存在の、一般的な時間性を論じていたのに続いて、この章では、その時間性を、現存在の本来的なあり方及び非本来的なあり方にそれぞれ対応させて、本来的な時間性と非本来的な時間性との差別について明らかにしようとするのである。時間性にこのような差別が生じるのは、現存在が通常は、日常性に陥落しているからである。その陥落は、現存在にとって、避けられない必然性をもっているので、現存在の時間性には、どうしても上のような差別が生じてしまうわけである。この章が「時間性と日常性」と題されているのは、そうした事情を踏まえたものである。

一般的な時間性をハイデガーは、一応、将来・既在・現在の三つの要素が統合されたものだとし、この三つの要素のなかでは、将来を基本にして時間性を考えるべきだとした。現存在としての人間は、本質的に自己を将来に向かって投企する存在であるから、必然的に将来が時間性をリードするというのが、その理由である。将来をどう展望するかによって、既在としての過去の意味も変ってくるわけである。

将来・既在・現在という時間性の三つの様相のそれぞれについて、ハイデガーは本来的な時間性と非本来的な時間性について論じている。まず、将来について。将来の本質的な意味は、現存在が自己の存在可能を自己に先がけて投企することにある。この自己に先駆けるということが将来の本質的な意味であることから、本来的な時間性としての将来は、先駆という形をとる。ひとは、先駆によって、自己の存在可能性を追求するのである。先駆と投企とは、同じ事象を異なった言葉で言い表していると言ってよい。

これに対して非本来的な時間性としての将来は、予期という形をとる。予期は、未来についての漠然とした期待のようなものである。先駆にあっては、現存在は自分の存在可能性に向かって自分自身を投企するのであるが、予期にあっては、現存在は、そのような企てをすることなく、受動的に未来について期待するだけである。いわば棚から落ちてくる牡丹餅を待っている姿勢、それが予期であるといえる。

次に既在。本来的な時間性としての既在をハイデガーは、取り返し(反復)と呼ぶ。反復とは、過去に経験したことを、将来に向かっての投企=先駆のために活用する事態と考えてよい。過去の出来事は、既に起きてしまって、もはや存在しない事柄なのではなく、将来に向かっての企てを実現する上で不可欠な要素なのである。

これに対して、非本来的な時間性としての既在は、忘却という形をとる。過去に経験した事柄が、そのまま忘れられてしまって、現存在にとっては何の意味ももたなくなり、その点で、もはや存在しなくなった事態、それが忘却である。

ついで現在。本来的な時間性としての現在をハイデガーは、瞬間(瞬視)と呼ぶ。瞬間はアウゲンブリックというドイツ語の訳であるが、その意味は、ハイデガーによれば、そこにおいて、将来と既在とが統合される事態を表わしている。つまり、前後から断絶した時点ではなく、そこにおいて既在が反復され、そこから将来への先駆が始まるその点、それが瞬間である。この概念をハイデガーは、キルケゴールから拝借したと仄めかしている。もっともキルケゴールの瞬間の概念には不徹底なところがあると批判することを忘れてはいないが。

これに対して、非本来的な時間性としての現在は、現前という形をとる。現前とは、世界が目の前存在者として、それこそ私の前に現前し、わたしがそれに気を取られている事態を意味している。私は、それに気をとられながら、受動的な姿勢にとどまり続ける。私は、時間の主人ではなく、時間のなかに囚われた状態に転落する。

以上、将来・既在・現在にかかわる本来的な時間性と非本来的な時間性についての議論をハイデガーは、了解、情態性、転落といった、現存在の存在構造にからめながら進めているが、そこから、将来が了解の働きを、既在が情態性としての気分を可能にしている一方、現在が現存在の転落の根拠となっている、という結論を導いている。

現存在の、現在への転落を最もよく現しているものとしてハイデガーは、「好奇心」に言及している。好奇心という言葉から人々は、プラスのイメージを引き出すことが多いと思うが、ハイデガーは全く逆の見方をする。ハイデガーは言う、「好奇心がいつもすでに、最も手近いものに留っていて、それ以前のものを忘れてしまっていることは、好奇心から初めて生まれた結果ではなくて、好奇心そのものにとっての存在論的制約なのです」。つまり好奇心はハイデガーにとって、現在化としての現在に現存在を閉じ込めてしまう、マイナスな事態なのである。現存在は「世界へと自分を失っている」というわけである。

以上のような時間性の分析を踏まえてハイデガーは、面白い結論を導き出す。「現存在は実存することによって、かれの世界であるのです」というものだ。実存の意味は時間性にもとづいている。というか、現存在の実存そのものが、時間的な現象なのである。そのことをハイデガーは、現存在の「存在論的意味は、時間性です」と言っている。これは、現存在は本質的に時間性から成り立っているという意味だが、それは言い換えれば、時間性の根拠は現存在にあるということでもある。要するに、現存在と時間性とは、ハイデガーの好きな言葉で言えば、本質的に根源を等しくするのである。

更に面白いのは、上の(中間的な)結論を踏まえて、「なんらの現存在が実在しなければ、どんな世界もまた『現』存しないのです」と言っていることだ。これは、上の結論からかなり踏み出したテーゼだ。上の結論は、現存在と時間性とが根源を等しくしているというにとどまっているが、この言明には、現存在と世界とが根源を等しくしているという、更に踏み込んだ考え方が含まれている。現存在が世界・内・存在として、世界のうちに投げ出されていることは、ハイデガーが繰り返し言明していることであるし、したがって、世界がなければ現存在はありえないということに当然なるわけだが、しかしそれを逆にして、現存在がなければ世界は存在しないというのは、あまりにも飛躍した言い方に聞こえる。

この言明に、ライプニッツの影響がこだましていることは、すこし考えをめぐらせばわかることだ。ライプニッツは、人間の数だけ世界があると言い、それら夥しい数の世界は、神の予定調和のようなもので結びついていると言った。ハイデガーも、とりあえずは、現存在の数だけ、それぞれに固有の世界があると思ったのではないか。だが、ライプニッツとは異なり、それら現存在の数だけの大きな数の世界を相互に結びつける都合のいい鍵が、ハイデガーには見当たらなかった。そこでハイデガーは、ライプニッツの名を秘めながら、とりあえず個々の現存在をモナドのようなものとして、このようなテーゼを、当面の問題として提起したのではないか。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
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