知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハイデガー「形而上学入門」


「形而上学入門」は、1935年のフライブルグ大学での講義を文章化して1953年に発表されたものである。これに対して、アドルノが強く反発し、その反発を梃子にしてハイデガー批判の書「本来性という隠語」を書いたことはよく知られている。アドルノがそんなに反発したわけは、ハイデガーがナチス時代における自分の生き方についてまったく反省しておらず、むしろ居直っているかのような印象を受けたからだと思われる。実際この本を読むと、あいかわらずドイツ民族優越主義を思わせる言葉があちこちにある。その点ではハイデガーは、ナチス時代と全く違っていない、そうアドルノが受け取ったのも無理のないところがある。

ハイデガーは言う、「(哲学という)この知において、又この知から、一民族は歴史・精神的世界の中の自分の現存在を理解し、成し遂げる」と。ここでいう一民族がドイツ民族を指していることは見え透いている。ハイデガーにとって問題なのは、ドイツ民族を通じて、現存在としての人間の実存、そしてそれを起点としての存在一般への問いの意味を明らかにすることだ。問題はだから、「われわれドイツ人自身の未来的現存在を、われわれに授けられている歴史の全体性の中で、存在の力の中へと返し届けることである」(川原栄峰訳、以下同じ)

このように民族の問題を哲学の中心主題として据えたのは、メジャーな哲学者としてはハイデガーが最初の人である。しかも彼の民族についての立場は、ドイツ人優越主義である。彼が当面の隣人フランス人を軽蔑して、フランス人が本物の哲学をするときには、ドイツ語で思考するといったことは有名な話だ。そうした自民族優越主義を、ドイツが歴史的な敗北を喫したあとでもなお、後生大事に抱き続けている。そのハイデガーとは一体なにものなのか。そうアドルノが批判するのも、やはり無理からぬところがある。

とはいえハイデガーはこの本の中でも、オーソドックスな形で問題を提起している。それは、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いの形をとる。この問いに正しく答えることが、哲学の本当の目的であり、また存在意義でもある。ドイツ人が出てくるのは、この問いに一定の答えが得られたときだ。それは、そういう問いに真に答えられるのはドイツ人しかいない、という形でである。ハイデガーによれば、本物の哲学はドイツ語でしか語りえないのであるから、そのドイツ語を操れる人、つまりドイツ人にしか、本物の哲学はできないのである。

ハイデガーがこの本の中で展開しているのは、存在者があること、つまり存在者の存在についてである。それをハイデガーは、かれ一流の言葉のサーカスを通じて実施する。たとえば、無という言葉についても、「無がある」という表現が可能であることから、無もまた「ある」、つまり存在すると主張するような具合だ。無とは本来非存在を表現する言葉だ。それがハイデガーの手にかかると、存在の一種に分類されてしまうわけである。

ともあれハイデガーがこの本の中で主要なテーマとして取り組んでいるのは、存在一般についての問いに答えることである。全体としての存在者を存在者たらしめている根拠、それをハイデガーは存在というわけだが、その存在の本質を明らかにすることがこの本の目的である。その点では、存在一般の意味を考える前に、その基礎的な作業として、現存在としての人間の存在つまり実存の構造を明らかにすることを試みた「存在と時間」と異なっている。「存在と時間」で対象になった現存在は、特権的な存在者としてそれ自身が特異な問題群を含み、その問題群を一つひとつ明らかにしていくことを通じて、存在一般への問いに道筋をつけると期待されたわけだが、この本では、とりあえず「存在と時間」での問題意識を迂回して、ずばり存在一般の意味について考えたい、そういうスタンスをハイデガーは取っている。決して相互に無関係なわけではないが、ここでは一応「存在と時間」とは異なった角度から、存在一般の意味を考えたい、ということのようである。

この本で展開されている議論は、ハイデガーにとっての大きな転回をあらわしていると評価されることが多いが、それは以上のようなことを背景にして言われることだと思う。「存在と時間」では、現存在の実存分析を通じて人間存在の意味を明らかにしようと取り込んでいたハイデガーが、この本での議論をきっかけにして、存在一般について思考するようになった。現存在はあいかわらず特権的な存在者としての意義を持ち続けるが、もはや現存在を通じてのみ存在の意味を明らかにしようとする姿勢は見られなくなる。そのかわりにハイデガーは、言葉の解釈という彼には馴染みの方法を洗練させて用いることで、存在一般の意味に答えようとするようになった、そのように受け取られるわけである。存在への問いに向き合う場合の、その向き合い方に多少の変化が生じたといってもよい。

ハイデガーは例によって、さまざまな通路から遠巻きにしつつ、次第に存在一般の意味の核心にせまってゆく。細かい議論を省いて単純化すると、ハイデガーがとりあえずたどり着いた結論は、存在とは存在者がかくれなくあらわになること、いままで隠蔽されていたものが全面的に開示されるその非隠蔽性のことをさすというものだった。隠れなくあらわになるといい、非隠蔽性といい、以前のハイデガーにおいては、真理の本質をさす言葉として使われていたものだ。それをハイデガーは存在一般の本質をさす言葉だと言い換えた。ということは、存在と真理とは同じものだ、と言っているわけである。

ハイデガーはなぜこんな結論に達したのか。普通の感覚からすれば、存在と真理とはどう見ても、同じ範疇の概念ではない。別のカテゴリーの概念だろうと受け取られる。それには、存在とは存在論上の概念であり、真理とは認識論上の概念であるという考え方があるわけだが、そうした考え方は間違っている、とハイデガーは随所で指摘する。存在が存在論上の概念だと割り切る人は、存在者の存在の仕方には差別はなく、基本的には一様のものだと前提しているが、そんなことはない。存在者の現われ方は多様なのである。それは存在者の存在が多くの場合隠蔽されているからだ。たとえば仮象は、存在者がその本来の姿を現しているのではなく、仮の姿で現われているものであるが、そういうことがおきるのは、存在者の存在が隠蔽されているからなのである。だからその隠蔽を剥ぎ取って、存在者をその本来の姿でかくれなくあらわにせねば、本来の存在をつかむことはできない。そうハイデガーは考えるのである。そうした非隠蔽性とかかくれなさというものは、真理がとる姿なのであるから、存在と真理が一致するのは、ハイデガーにとって当然のことなのである。もっともこの本の中でハイデガーは、存在と真理の一致ということを、表立っては言っていないが。





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